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里枝子のエッセイ

信州から感謝をこめて

名古屋ライトハウス名古屋情報文化センター発行
「名古屋盲人情報文化センター50周年記念誌」掲載(2010年3月)

 私は今も、講演や、ピア・カウンセリング講座のリーダーなどの仕事で、「名古屋盲人情報文化センター」に呼んでいただくことがありますと、懐かしさで胸を熱くして飛んで参ります。ここが私の故郷!ここで岩山先生ご夫妻と、人生の先輩方、協力者の方々に出会い、一人の盲人として正々堂々と生きるために必要なことを教えていただいたのだと感謝の気持ちでいっぱいになるのです。
 私が「名古屋ライトハウス点字図書館」の館長であった岩山先生に出会ったのは1980年。私が大学4年の時でした。
 当時私は、文字が読めないほど視力が落ちていました。就職先はどこにもなく、重い気持ちで見学に出かけた点字図書館で、岩山先生に巡り会えたのでした。
 そのとき私は、岩山先生から、点字図書館を始めた経緯などを伺いましたが、自身の盲学生としての苦労をバネに、信念を貫き、点字図書館を創設した岩山先生のお話はユーモアとエネルギーに溢れていました。私は、そのお話を聴くうちに、心の闇が吹き払われ、希望が沸きました。今、自分が苦境に立っていることも、逆に雄々しい出発へのエネルギー源にできるのではないかと突然気づいたのでした。
 私は翌年、貸し出し係として就職し、それから3年間。岩山先生のもとで、皆様からご支援をいただきながら、次々と厳しい課題を与えられ、ひとつひとつ教え導いていただきました。その間に、点字の読み書きを徹底して教えていただいたことや、すべての図書の表紙と書架に点字をつけるなど、障害なく働ける環境づくりのために、皆様にご協力いただいたことは、40周年の記念誌に書いた通りです。
 1984年に私は結婚のために退職し、信州に移り住みました。私たちの結婚披露宴が、私が見えないことを隠すように進んでしまっていたとき、祝辞に立った岩山先生は、私が見えないことをはっきりと伝えて、「しかし盲目は不幸ではありません。里枝子さんが幸せになれるかどうかは皆さんの協力にかかっているのです」と全力で支援を呼びかけてくださいました。そのおかげで、私は見えないことを表明し、協力を求めながら、この地で歩みだすことができたのです。
 その後も私は、悲しいにつけ、嬉しいにつけ、点字の手紙を書いて岩山先生ご夫妻に送り、その度にご夫妻は、ともに泣き、ともに喜んで、温かなお返事をくださいました。仕事の面でも、微力ながら信州で続けてきたラジオパーソナリティーや、障害者の自立支援の仕事、点字指導の仕事のベースには、名古屋で学んだことと、岩山先生の教えがありました。
 「どれだけ周囲の人々に理解をいただけるか、一緒に歩んでいけるかを自分に問いながら、心のバリアをとり払って本当の理解を進めるために真剣に努力してほしい」
 岩山先生のこの言葉は、先生がご帰天された後も、私に与えられた重要な宿題になりました。
 また、岩山先生が最後まで気にかけておられたのは、盲児たちの教育と、ハンセン病療養所に暮らす失明者の方々のことでした。
 岩山先生は、普通校への盲児の入学拒否は排除であるとしながらも、普通校に学ぶ盲児と、ご家族の苦労を痛切に受け止めて、点字指導などの教育支援を、次世代にひき継ぎたいと強く願っておられました。そして、「ハンセン病療養所に我々の仲間がいることを決して忘れてはならない」と言い続けておられたことは多くの著作に遺された通りです。私は岩山先生がご帰天された後、奥様と親しい方々とともに、先生が生涯、心を寄り添わせた岡山県の「長島愛生園」を訪ねました。そこで岩山先生が「全身が不自由で固まっているような人たちが、僕を叩いて叩いて叩いて一人前の人間にしてくれた」とおっしゃっていた意味を理解させていただきました。それは、差別され、虐げられた人々に寄り添い続けるところに、岩山光男先生の一貫した立ち位置があり、立ち帰る原点があったということです。
 創立50周年にあたり、このような精神を礎とする「名古屋盲人情報文化センター」が、闇に光を注ぐ灯台として、これからも輝き続けることを祈念いたします。