ここから本文です。

里枝子のエッセイ

朱色のランドセル

日本点字図書館随筆随想コンクール参加作品(2010年4月)

 「男の子のランドセルは黒、女の子のランドセルは赤と決まっているのも、実はジェンダーなのです」
 カウンセリングの講座で、講師がそう話した時、私はふと「私のランドセルは朱色だった」と思い出した。赤でも黒でもない。きれいな深い朱色のランドセル。丈夫な皮でふっくらした形に縫い上げられていて、蓋の下の所にピカピカ光る金色の金具が二つ付いていた。それは父母が吟味して選んでくれた入学祝いだった。
 ふり返ると、あのランドセルを背負って小学校へ通い始めた頃から、私は他の人と同じではない自分、完全にはその場に所属できない自分を感じ始めた気がする。なぜそうなるのかわからないながら、不自由さを体験しはじめたあの頃。ある意味では、私が私になる節目の時期ではなかったろうか。
 母の話だと、私は小学校に入学する前から、母と一緒に何度も通学の練習をしたそうだ。それなのに通学初日から帰り道で迷子になった。無理もない。非常に狭い視野で目標物だけを探して歩き、それを見逃したら迷うしかない歩き方だったからだ。
 その日私は、違う校門から出てしまった。母に教わった通りにまっすぐ歩いたが、目標の交差点が見えてこなかった。急に不安になって、じっと周囲を視ると、練習した道とは違う商店街だった。朱色のランドセルを背負って店の前をうろうろしている小さな女の子をみかねて、肉屋のおじさんが声をかけてくれたらしい。母が心配で心配で、家を出たり入ったりしているところへ、私がおじさんのバイクの後ろに乗せてもらって、のどかな顔をして帰ってきたのだそうだ。
 「こっちは出たり入ったり。貴女は想像外のことをするから、私はいつだって大変な思いをするのよ」
 母の話は、このことになると今も小言になる。私自身は、門の脇に立つ母の姿を見たとたん、心からほっとして泣き出したい気持ちになったことを覚えている。
 その後も私は、様々な苦労をしながら通学した。特に小学校低学年の頃は、年中すりむいたり、切ったり、ぶつかったりした。傘を持ったまま転んで、目のすぐ下を突き刺してしまったこともあった。その度に母は心配し、時には心配を通り越して悲鳴のような声をあげながら叱った。
 「もっとよく見なさい!注意深く行動しなさい!」と、どれだけ言われたことだろう。今は、弱視の子どもたちが少ない視力を上手に使って行動できるように、楽しみながら訓練する方法があると聞く。だが、当時、母はそんな方法は知らなかった。だから晴眼の子が不注意なことをした時のように、ひたすら言い聞かせ、叱る他なかったのだと思う。
 もう一つ、小学校1年の通学では、スライド写真のように目に焼きついているシーンがある。それは、私が田園の1本道を家に向かっていたときのことだ。数人の子が、何か私のことや朱色のランドセルのことを言って囃したてた。そして、バラバラと石を投げてきたのである。私は逃げた。全力で逃げたが、足は遅いし、1本道は隠れるところがなかった。すぐに追いつかれてしまい、石はランドセルに当たり、金具にも当たってカチカチと音をたてた。どうやって逃げおおせたのか覚えがない。家に着いてランドセルを見ると、滑らかだった蓋の右上から左下にかけて、斜めに無惨な傷がついていた。細かな傷もついて、顔が映るほどだった金色の金具は傷で曇ってしまっていた。
 このランドセルは私が再度いじめにあった6年生の頃にも、床を引き回されたり、ベランダから落とされたりした。私はランドセルの傷に触れる度に、自分が傷だらけにされてしまったような悲しい気持ちになった。だけど、このランドセルを嫌いだと思ったことはない。両親が私のために選んでくれた朱色のランドセルは、ずっと私と一緒にいてくれる大切なお守りだった。
 それらのことを一気に思い出してから、私は改めて考えていることがある。それは、男の子のランドセルは黒、女の子のランドセルは赤と決まっているのがジェンダーなら、それが常識だった時代に朱色のランドセルを背負って学校に通いとおした弱視の女の子は、そのパターンから自由だったのではないかということだ。他の面でも、私はみんなと同じやりかたではできない分だけ、常に自分のやりかたを編み出す自由はあった。そう考えると、普通校で生き延びるために、つらい体験を重ねたと思いこんできたことが、晴れ晴れとしたちがう情景に見えてくる。私は道に迷って、街の人に助けてもらうことができた。転んだりぶつかったりしながら、行きたい学校に歩いて通うことができた。いじめっこたちから必死に逃げて、大勢の中から気の合う友達をつくることができた。そうして私は私になった。自分をもっと見つめたい。私を愛してくれた人、助けてくれた人、鍛えてくれた人たちのことも。