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里枝子のエッセイ

お転婆姉妹

自分史を編む No.5/2010年7月25日

プロローグ
編入試験
白いブーツ
入学式
白い三角布
最初のお部屋
2段ベッド立てこもり闘争
木陰の通学路
お転婆探検隊

プロローグ

 今年の3月末に、私は、中学・高校時代の5年間をともに暮らした姉妹2人と一緒に、懐かしい強羅に泊り、箱根をドライブした。箱根の桜は、ようやくちらほらと咲き出した頃だった。強羅には、今も、私たちの母校、S学園と、その寄宿舎がある。
 この稿では、まず、その旅のことを書いておきたい。そして、旅で一気に蘇ってきた思い出のなかから、S学園に入った当初のことを書こうと思う。
 箱根登山電車は、大きなエンジン音をたて、スイッチバックを繰り返しながら、天下の険の箱根の坂道を登って行った。この登山電車には、夢の中では、何百回、何千回乗ったかわからない。実際に乗るのは、高等部卒業以来、30数年ぶりだった。
 箱根湯本・塔ノ沢・大平台・宮ノ下・小涌谷・彫刻の森・・・ 駅名のアナウンスを聞くだけでも懐かしさがこみあげてくる。私は思わず目を見開いて、車窓の景色を心で見ようとしていた。
 今回一緒に旅した2人は、寄宿舎の同学年の仲良し6人姉妹のなかでも、とりわけ気のおけない、あきちゃんとまっちゃんだ。この寄宿舎の仲間は、やはり友人というより姉妹と呼ぶのがふさわしい気がしている。大学時代の友人のように、選んだ友人とはちょっと違う。元からそこに居て、3食同じものを食べ、一緒に泣き笑いし、一緒に育った。根っこのところで同じものを分かち合っている。そんな感じがしてならないのだ。
 あきちゃんとまっちゃんに両側から護られながら、箱根登山電車を降りて、強羅駅のホームに立つと、硫黄の鋭い臭いが鼻を突いた。記憶にある私たちの日常を包んでいた臭いは、もっとふんわりした温泉の湯気のような臭いだったのにと思っていると、じきに鼻が慣れてきて、その臭いは、記憶と重なり始めた。
 私たちは、夕方までには強羅教会近くの保養所にチェックインするという以外、何も決めていなかった。だが、強羅駅の改札を出ると、私たちの足は、観光客で賑わう駅前を離れて、自然に母校のほうへ向かった。
 「ねえ、この右のほうに地下道がなかったっけ?確かモノレールの下を通っていた地下道だったよね。今でもあるかしら?」
 私が聞くと「あるある。くぐってみる?」 「行こう行こう」と2人。
 地下道を抜けると、S学園の正門へと続く道だ。
 正門の鉄の門扉は閉まっていたが、2人は「ちっとも変らないねえ」と懐かしそうに言いながら、その向こうに並ぶ校舎を見上げていた。
 そして私たちは道を左に折れて、寄宿舎へ向かう急坂を上った。この坂は、覚えていたより傾斜がきつかった。少女時代には、平気でこの坂を駆け上がったり駆け下りたりしていたあきちゃんとまっちゃんが、五十路にさしかかった今は、息を切らしながら上っている。
 「凍っていた日にさ・・・あたし、ここで滑って転んだことがあったっけ」と、あきちゃん。
 「あたしは滑りはじめたからさ・・・ ひょいっと座ったら、そのまま下まで上手に滑って、見事、着地したの・・・あたしって、すごい!って思ったよ。」と、まっちゃん。みんなが笑った。
 今にも目の前に、そのお転婆な少女たちが飛び出してきそうな気がした。
 しばらく上ると、坂は更に急になった。ここから左に行くと、修道院の垣根に沿った木陰の道で、S学園の裏門へ続いている。まっすぐ坂を上りきると寄宿舎で、ここあたりは私たちが毎朝毎夕、通学した道だ。
 そのとき、まっちゃんが声をあげた。
 「あたしたちの寄宿舎、あるよ!ほらっ!」
 もうなくなったとか、廃屋になっているとか聞いていた昔の寄宿舎の建物が、そのまま残っていたのである。古びて鉄の門扉は硬く閉まっていたが、奥には電灯もついて、人の気配もあるという。
 私たちは馴染み深い鉄の門扉に手をかけて、両開きのドアのガラスの透明の所から、いくらか見える玄関フロアのようすを見ながら、かつての寄宿舎内のようすを思い出していた。
 「今もフロアにマリア像があるよ。あっ、お鐘鳴らしの鐘が置いてある!」
 「ほら、階段も見えるでしょ?あそこを上がると左手に鉄の扉があって、屋上に出られたこと覚えてる?あたしとまっちゃんは、学校休みたくてさ。寒い日でも、よく屋上に行って、寝そべったりしたよね。」
 「そうそう。あたしは、すぐ風邪をひけるのに、あきちゃんたら、ちっともひけないんだし。アハハ・・・」
 話は尽きない。
 私たちは、寄宿舎の周りをゆっくり回ってから、わざわざ今来たばかりの通学路を通って学校を見に行き、更に別の通学路から寄宿舎に戻って、延々と思い出を語りあった。
 そして、最後に新しい寄宿舎をみつけて、しばらくその前に立っていた。その寄宿舎はきれいな桃色をしたおしゃれな建物で、昔の寄宿舎とは比べものにならないそうだ。
 「もう一度中学生になって、この寄宿舎に入ってみたいなあ・・・」とまっちゃんが呟いた。すると、あきちゃんも「私も・・・」と、しみじみ言った。
 そのとき、ふいに私の胸の奥から訴える声がした。
 「あたしはいや!あきちゃんやまっちゃんや、みんながいない寄宿舎なんて絶対に入りたくない!」
 その声の主は、大きな目に涙を光らせた中学生の私だったろうか。
 「わかっているよ。あの頃はみんながいてくれて、本当によかったね。」
 私は心の中で、その少女に優しくうなづいた。

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編入試験

 私が小田原市の公立中学の1年生のときにS学園中等部の編入試験に合格したのは、神様がおこなった奇跡だった。
 S学園は、東京にあるS学園の姉妹校で、東京のS学園が戦時中に箱根に疎開して設立された。
 箱根登山鉄道の終点である強羅にあり、幼稚園から高等部まで、キリスト教精神に基づいて女子教育をおこなっている。生徒は、幼稚園や小学部から上がってくる生徒と、中学1年で入学試験を受けて入る生徒がほとんどだった。
 しかし、私が中等部2年の編入試験に合格できる見込みは薄かった。S学園では、途中から編入する生徒は若干名しか受け入れていなかったからだ。
 その上、試験科目は国語、数学、社会の3科目だと入試要項に書いてあったのに、私は社会が極端に苦手だった。言い訳になるが、私は色弱の上、視野が非常に狭かったので、小学生の頃から地図が見えず、地理や歴史の知識を整理して頭にしまうことができていなかったからだ。
 そんな私が、なぜS学園を受験したいと思ったのか。その理由は、いずれ書くとして、ともかく私は、切羽つまった気持ちで、当時小田原で一緒に暮らしていた叔母に加勢してもらい、秩父にいた両親に頼みこんで受験を許可してもらった。
 試験は1971年の暮れではなかったかと思う。秩父から出てきてくれた母と、箱根登山鉄道に乗って強羅駅に降り立った。
 その日は寒く、降りしきるボタン雪が白いカーテンのように視界を覆って、心細くなったことを思い出す。
 母と私は、受験前に滑ってころんだりしないようにと、手をとりあい、足にも力を入れて、幼稚園から高等部まで続く長い石段を上った。
 校舎内は温泉暖房で暖かかったが、編入試験を受ける受験生の教室に入ると、思った以上に人がいたので、この中から自分が選ばれることはありえない気がした。
 ところが、黒いベールをかぶり、黒い修道服を着た、ふくよかなシスターが教室に入ってきて、にこにこしながら福音を告げたのである。
 「編入生の皆様の試験は、国語・数学・英語です」と。
 私は心の中で歓声をあげた。一番苦手な社会の試験がなくなって、一番得意な英語の試験をしてくれることがわかったからだ。
 私は、このときほど意気揚々と試験に臨んだことはない。教室は明るく、試験問題は読みやすく、すらすらと解けた。
 後で聞いた話では、このとき編入試験を受けた中で、合格したのは私1人だったという。また、数学の先生は、私が受けたのと同じ試験を在校生に受けさせたところ、私がトップだったので、「すごい子がきますよ。皆さんも負けないように頑張りなさい」と同級生たちにはっぱをかけていたそうだ。「どんな優等生が来るかと思って緊張して待ってたらさあ〜」と、このことは後々まで笑い話になった。

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白いブーツ

 「里枝子と初めて会ったときのこと、あたし、よく覚えているよ。白いブーツを履いてたでしょ?『白いブーツなんか履いて生意気だあ!来たらいじめてやろう!』って、昌子と手ぐすねひいて待ってたんだもん。ねえ、昌子」と、あきちゃん。
 「えー?そうだったっけ?でも、そんなことあったかも。だいたい、あたしなんかは、我侭で手に負えなかったから、親に寄宿舎に放りこまれたんだもん」と、まっちゃん。
 「あたしもそう。あのままだったら、ひどいことになってたなあ。里枝子と一緒になったおかげで、自然に思いやりが身について、まともになれた気がするよ。アハハ・・・」
 「あたしもそう。ウフフ・・・」
 強羅の保養所で、ゆかた姿で思い出話に花を咲かせていたときの、あきちゃんとまっちゃんの会話である。
 あきちゃんとまっちゃんとは、寄宿舎だけでなく、学校のクラスも同じだった。そんなこともあって、寄宿舎の同級生の仲良し6人姉妹の中でも、とりわけよく一緒に遊び、よく私をかばってくれた友人たちだ。
 本人が言うように、我侭娘ではあったろうが、はじけるような魅力に溢れていて、2人と一緒にいると、私も自然に解放された。
 白いブーツのことは、すっかり忘れていたのだが、あきちゃんの話を聞いて久々に手触りまで思い出した。真っ白で、膝下まであるつやつやしたブーツだった。母が、箱根の雪道を安全に歩くために新調してくれたものだった。
 私が、あの白いブーツを履いて寄宿舎に見学に行ったときに、あきちゃんが私を見かけたとしたら、それは1972年の1月か2月頃だったろう。
 その日のことで、まず思い出すのは、強羅駅の近くで、後に私の大切な妹になってくれたえっちゃん親子を見かけたことだ。えっちゃんは真っ赤なコートを着て、ご両親に両側から守られるようにして歩いていた。母が、えっちゃん親子と会釈をかわした後で、「きれいなお嬢さんねえ・・・」と、呟いた言葉が印象にある。
 そういえば、この日の母は「まあ、かわいらしい!」「まあ、立派ねえ!」と感心のしどおしだった。正門を入って石段を登りはじめると、左手の校庭で遊んでいた紺色のスモックを着た小さな女の子たちが、1人残らず「ごきげんよう」と、おかっぱ頭が膝につくほどの丁寧なお辞儀をしてくれたからだ。石段の上から下りてくる年長らしい三つ編みを両肩に垂らした少女たちは、更に丁寧に、踊り場の端によけて来客である私たちを先に通してから、両手をそろえて、「ごきげんよう」と深いお辞儀をして見送ってくれた。
 この日、S学園のこの雰囲気を初めて体験した母と私は、別世界への階段を上る心持ちだった。
 それから私たちは、S学園の敷地の一番上にある中等部・高等部の4階建ての校舎に入り、中等部1年に入学する生徒と保護者に混じって、色々な説明を聞いたり、校章の入ったセーラー服や革靴などをたくさん注文した。
 それで私は、買い物は済んだと思ったのだが、次は1階の購買部に行って教材や文房具一式をそろえるようにと指示があり、大勢に混じって購買部に移動した。このときのことは、その後も購買部に行くと思い出した場面だ。
 購買部のカウンターの上には、校章の入った紙袋やレポート用紙、下敷きや筆箱、鉛筆などが所狭しと並び、奥には教科書などの教材が山積みされていた。これらはS学園の姉妹校共通のもので、これからはすべてこれらの専用のものを使わなければならないとのこと。
 私は、それらの文房具類と、その値段を見ているうちに、急に不安になってきた。このときになってようやく気づくあたりが、いかにも私らしいのだが・・
 この転校は、私の想像をはるかに超えて、両親にとんでもない負担を強いることなのだという実感が突然沸いたのである。
 S学園は全国の私立校の中でも学費が高いことで知られていたし、それより高いのは寄宿費だった。それに加えて、1年しか使っていない教科書や文房具類まで、高いものに買い換えなければならなくなってしまった。サラリーマン家庭の我が家を思うと、自分がどんなに我侭なことをしようとしているかをひしひしと感じた。
 私はこのとき母を見た。母は自分で縫った黒と白の千鳥格子のスーツをきちんと着ていた。けれども、ファッションショーのように華やかな他の母親たちと比べると1人だけ地味に見えた。それでも怯むようすもなく、背筋を伸ばして口をきゅっと結んだ真剣そのものの表情で、買い物のリストをチェックしてくれていた。
 私は、そんな母をじっと見てから、目をそっとカウンターに戻した。今から後戻りはできない。私が後悔していたら、なおさら両親に申し訳ないことになると思った。
 次に思い出すのは、寄宿舎に入る予定の生徒とその保護者が、舎監のマスールの後について、裏門を出て左にまがり、ひと塊になって雪の坂道を登って行った場面だ。来たときは穏やかに晴れていたのに、そのときは吹雪になっていた。雪は足首が埋まるほど積もりはじめていたので、母がブーツを用意してくれたことをありがたく思った。
 S学園は全寮制ではなく、大部分の生徒は近隣の市町村から箱根登山鉄道に乗って通学していた。寄宿生は遠方に自宅のある中学生と高校生、40名ほどだった。
 そのため、このときに一緒に見学に行った1学年下の生徒は6、7人だったと思う。黙々と前を行く親子の中には真っ赤なコートを着たえっちゃんがいたはずだった。
 そして、初めての寄宿舎見学では、1つの場面だけを覚えている。それは2人の上級生が、サロンのソファーにいた私たち新入生と保護者たちに、お茶を出してくれた場面だ。
 その上級生たちとは、その後は会わなかったので、私たち新入生と入れかわりに卒業した最上級生だったのだろう。一瞬の場面を覚えているのは、寄宿生になった後、マスールたちから「昔の寄宿生は、あなた方のようなことは、決してしませんでしたよ!」と度々叱られて、その度に、その2人を思い出したせいかもしれない。
 2人の上級生たちは、長い髪を1つに束ねていて、温かそうなロングスカートを履いていた。
 2人は「失礼いたします」とそろって丁寧なお辞儀をして、茶碗を載せたお盆を掲げながら静々とサロンに入って来た。そして1人1人に微笑みかけながら、お茶を勧めてくれた。
 そのしとやかな雰囲気は、高校生というより、まさに淑女だった。
 私は、憧れと、自分にこの真似ができるだろうかという不安の入り混じった複雑な気持ちで、2人のしぐさを目で追っていた。
 あのときも我がいたずら姉妹たちは、どこかの扉の隙間からこちらを覗いて、あの子が来たらどんないたずらをしかけてやろうかと、目をくりくりさせながらたくらんでいたのだろうか。

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入学式

 中学2年生に編入した初日のできごとは、絵に描けそうなほど覚えている。たとえば講堂での入学式のようすだ。
 後では同級生たちと「カラスの葬式」などと笑ったこともあったが、当時のS学園の全校での式典は、姿がそろって見事だった。
 前に居並ぶ先生方は、半分近くが黒いベールをかぶり、黒い修道服に身を包んだマスール方であった。男性の先生は、白髪まじりの方が、3人だけだった。
 生徒たちは、全員が襟に真っ白な校章の刺繍と、細い3本の白線の入った濃紺のセーラー服を着て、同じ黒のストッキング、同じ白の上履き、同じ金文字の入った聖歌集をかかえて、きちんと並んでいた。
 生徒の髪型は、幼稚園生と小学生はおかっぱ頭であり、中学生、高校生は25センチ以上編み下げるというのが校則だったため、中学2年生以上は、髪を2つに分けて清楚に編み下げていた。中学1年生だけは、まだ髪が伸びないので、おかっぱ頭を2つに分けて、黒ゴムで縛ったような髪型をしていたが、その姿も初々しかった。
 私は、目の前にずらっと並んだお下げ髪と、白いうなじをうっとりと眺めて、安心感に浸ったことを思い出す。
 ここにはもう、目の悪い私をねらって、乳房にさわってくるような粗暴な男子たちはいない。もう大丈夫なんだ・・・
 そう思って撫で下ろした胸に、聖歌「御母マリア」の美しい全校合唱が染み渡った。

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白い三角布

 次に思い出すのは、教頭様に連れられて、まっちゃんに初めて会った場面である。この教頭様は、面接試験の後、私が母に「教頭先生は大きな冷たいお魚みたいな目をしていた」と報告してしまった、あの教頭先生だ。面接のときは、「ひよこさん」というニックネームのある可愛らしいマスールであった校長様に対して、堂々たる体格で、眼鏡の奥からぎろりと睨む教頭様は、厳しい人に見えたのかもしれない。だが、実際は、ユーモアがあって、生徒からも人気のあるマスールだった。
 教頭様から、私と同じクラスで、同じ寄宿生のSさんを紹介するので、ついてくるようにと言われて、私は少し緊張しながら後について行った。私は、3度目の転校だったので、最初に出会う人とうまくやれるかどうかが、その後を決定づけるくらい重要だということを知っていたからだ。
 ところが、教頭様に連れて行かれたのは、なんと職員用の女子トイレだった。
 教頭様がトイレのドアを押して開けると、そこにモップを持って、トイレの床をせっせと拭いている、まっちゃんがいた。
 まっちゃんは、私たちに気づくと、こちらに向き直って、にっこりと笑った。その満月のような少し下膨れのまん丸な顔と、笑って三日月型になった目が、今も懐かしく思い浮かぶ。まっちゃんは、頭に白い三角布をかぶり、「タブリエ」とよばれる紺色のスモックをセーラー服の上に着ていた。
 教頭様は「こちらがSさんです。貴女と同じ寄宿生です。寄宿生は、職員トイレの掃除を任されるほどの模範生なんですよ。困ったことがあったら、何でも、このSさんにお聞きなさいね」と言った。
 私は「はい」と答えて、「職員トイレの掃除を任されるほどの模範生」に尊敬の眼差しを向けた。
 それから教頭様は、まっちゃんに向かって「Sさん、お願いしますね」と威厳をもって言った。
 まっちゃんは、「はい、マスール。承知いたしました」と答えて、深々とお辞儀をした。私も、あわててまっちゃんのまねをして頭を下げた。
 ところが、トイレのドアが閉まって、教頭様の足音が遠ざかると、まっちゃんは、急に砕けた感じになった。
 私を上から下まで遠慮なく眺めてから、「あれ?あんた、三角布ないの?」と聞く。
 私がどぎまぎしていると、まっちゃんは、「じゃあ、これ使う?」と言って、自分の頭から白い三角布をするりと脱いで渡してくれた。
 私は、びっくりしながら、お礼を言ったろうと思う。でも、私の視力だと、見ただけでは白い三角布のどちらが表かわからなかったので、手の中で、ひっくり返して縫い目にさわったりしていた。するとまっちゃんは、この一瞬で(ああ、とろい子なのね)と了解したらしい。
 「やってやろうか?」と言って、私の手から、さっと三角布を取り、私の後ろに回って、三角布をかぶせて縛ってくれた。
 まっちゃんは、私の両肩に手を置いて、洗面台の鏡の方へくいっと向けてから、「これでいい?」と聞く。鏡の中には、白い三角布をかぶった自分の恥ずかしそうな顔と、まっちゃんの満月の笑顔が映っていた。
 記憶は、この後、まっちゃんから借りた三角布をかぶったまま、まっちゃんに連れられて、いろんな人と引き合わせてもらった場面へと飛ぶ。あきちゃんとも、このときに初めて会ったのだろうが、残念ながら覚えていない。覚えているのは、くーちゃんに会ったことだ。
 くーちゃんは寄宿生で、寄宿生の同学年の責任者だと、まっちゃんから紹介された。S学園では、学年ごとに厳しい上下関係があり、1年でも学年の上の人のことは「お姉様」と呼ぶことが伝統的に決まっていた。更に寄宿舎では、同じ学年のなかでも、寄宿舎に入った時期と、生年月日によって、序列が決められていたからだ。けれども、そうでなくても、くーちゃんは、私たちの学年の責任者にふさわしい人だったと思う。
 くーちゃんは、ちょっとグラマーなふっくらした体型だった。とろけるような笑顔で私を迎えて、三角布をわざわざ脱いでから「エッチくーだよん。よろしくー」と言って、両手で私の手を包んでくれた。
 「エッチくー」というのは、くーちゃんが、時々下ネタを飛ばして、みんなを和ませるのが得意だったので、ついたニックネームだ。
 くーちゃんは、高等部にお姉さんがいて、姉妹で寄宿舎に入っていた。特別に小学部6年生から寄宿舎に入ったのだそうだ。そのこともあってか、上級生たちから、とてもかわいがられ、重宝がられて、お風呂などでは、上級生たちの長い髪をニコニコしながら洗ってあげていることがよくあった。上級生たちの中には、髪が腰あたりまである人もいて、1人で洗うのは難しかったからだ。
 下級生にも親切で、休みの日などには、ベランダに新聞紙を広げ、椅子を置いて、美容師さんのように丁寧に毛先をそろえてあげていた。
 今思えば、くーちゃんは、お転婆な私たちの学年の責任者として、苦労があったと思う。でも、大らかに受け入れて、代表で叱られてくれていた。いつも、みんなが必要なものを用意していて、魔法のように出してくれる・・・そう、「ドラエモン」みたいにありがたい人だ。
 「里枝ちゃんて呼んでいい?」
 そう言って、最初に「里枝ちゃん」と親しく呼んでくれたのも、このくーちゃんだった。
 そして、紹介して歩いてもらったこの場面で、もう1つ思い出すのは、何人かに囲まれているときに、誰かが私の肩をぼんぼん叩きながら「北島さんって勉強できるんだってね」と言ったことだ。私が答えに窮していると、まっちゃんがすかさず「それがさあ、けっこうとろい子なんだよ。めんどうみてやってね」と笑って言ってくれた。なんとありがたいことだったろう。
 私は、他の人と同じように動作できないことが周囲にわかるにつれ、上級生からは叱られることが増え、下級生にも追いついていけないことが増えた。
 今になって、病気の進行状態の似ている網膜色素変性症の人たちに聞くと、中学に入った頃から、不自由さが増し、いじめにあうようになって、この段階で盲学校に転校したという人は少なくない。私も公立校でいじめにあって転校を余儀なくされたわけだが、私はあいかわらず見えにくいことを隠したまま、私立の普通校に転校し、寄宿舎生活まではじめてしまったのである。それまでよりうまくいく保証はどこにもなかった。
 けれども、いつも私の味方になって守ってくれたのは同級生たちだ。その大事な関係づくりを、まっちゃんが、めんどうみのいい姉のように助けてくれたのである。
 今回、強羅の保養所で、思い出話に花を咲かせていたときに、私はこの日の思い出を話して、改めてまっちゃんにお礼を言った。けれども、まっちゃんはぜんぜん覚えていないと言う。
 「あたしったら、それで里枝ちゃんのめんどうみなきゃって思っちゃったのね〜」
 まっちゃんは、そう言って、くったくなく笑った。その笑顔を想像すると、私はやっぱり、白い三角布をかぶった満月のようなまん丸な笑顔が目に浮かぶのである。

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最初のお部屋

 寄宿生の居室は4人部屋だった。コンクリートの新館の2階に5部屋、木造の旧館に5部屋あり、後は、職員の居室と、食堂や台所、ロビー、お祈りの部屋、温泉をひいた風呂場、洗濯場、電話室などの共同スペースだった。
 各居室は、ほぼ同じ配置で、ドアを開けると左右に2段ベッドがあり、その向こうに2人で半分ずつ使う洋服ダンスがあり、その向こうに2つずつ勉強机があって、正面のサッシを開けると小さなベランダに出られた。ベランダに出ると、硫黄の臭いが漂ってくる。垣根の向こうには桜並木が見え、その向こうには早雲山が青々と見えた。
 寄宿生たちは、S学園の生徒のうちでも裕福な家庭の子女が多かったので、家では贅沢な暮らしをしている人も少なくなかったはずだ。けれども、寄宿舎は簡素で、生活ぶりも修道院に準じるくらいに質素だった。良家の子女であればこそ、少女時代は贅沢を慎み、厳しい躾けをして養育すべきという考え方が、フランス系の修道院から始まった学園の伝統の中にも、そこに子女を預ける保護者にも、当時は共通にあったのだろう。
 各居室は、高校生と中学生が一緒になっていて、その中の最上級生が室長を勤めていた。その室長は、生活全般にわたって同じ部屋の後輩たちの指導をし、寄宿舎の様々な決まりが守られるよう責任をもつことになっていた。私たちの学年が室長になる頃には、室長の権威を、だいぶ崩してしまった気がするが、私が入舎した当時は、室長の権威は絶大だった。今思えば、40人もの思春期の少女たちの監督をしていたのは舎監のマスール1人である。他には、たまに応援に来るマスールが1人と、調理担当の婦人がいただけだ。それなのに寄宿舎が常にきれいに清掃され、その日常が整然と進んでいたのは、代々受け継がれてきた上級生たちの自覚と自治によるところが大きかった。
 しかしながら、弱視が進んで、不自由さが増していた私が逃げ込む先としては、大変な所に飛び込んでしまったものである。
 私が最初に入った部屋は、新館の2階の左端にある部屋だった。毎年部屋替えがあったので、その後の部屋は記憶が薄いが、この最初の部屋のことは、いまだに夢に見る。
 メンバーは、当時、高等部2年生だった室長のAお姉様。中等部3年生だった、名前を思い出せないおとなしいお姉様。同級生のまきちゃん。そして私の4人だった。
 ガラーンガラーンガラーン・・・
 朝6時。「お鐘鳴らし」の係りの人が鳴らして歩く鐘の音で、寄宿舎の1日は始まる。
 2段ベッドの下側、私と並んだ所に寝ているAお姉様は、真っ先に起きて「さあ、みんな起きなさい」と指示を出す。
 言われるまでもなく、Aお姉様の上の段にいたまきちゃんも、私の上の段にいたお姉様も、布団をたたみ、どんどん着換えているようだ。準備がすむと、ベッドの周りのカーテンをシャー、シャーと開けて、挨拶をかわしながら、次々に洗面所へ出ていく。
 そんな音を聞きながらも、集団行動に慣れない私は、追いたてられる感じがしてしまって、なかなか行動に移れなかった。
 やっと起きて洗面所に行くと、もう上級生たちは洗面を終えて、長い髪をすいすいと編んだりしている。
 私は、細く折りたたんでずらっと並べてかけてあるタオルを端から何度も数えて、自分のタオルを探すだけでも手間取っていた。それから、たくさんある洗面道具の中から自分の洗面道具を探しだし、空いている蛇口を探しだし、短い髪を苦労して縛って、部屋に戻る頃には、次の掃除開始の鐘が鳴ってしまうのだ。
 「早くしなさい!」
 Aお姉様から、早速叱られることになった。
 掃除の時間にも、私はよく叱られた。
 思い出すのは和式の水洗トイレの便器を懸命に磨いている場面だ。
 「まだ黄ばんでいるでしょう!ちゃんと磨きなさい!」
 Aお姉様が、私の後ろでいらいらした声をあげていた。でも私には、どこが黄ばんでいるのか、さっぱりわからなかった。仕方ないので、便器の全面にクレンザーを振りかけると、クレンザーは、辺りに飛び散ってしまったらしい。
 「何やってるの!もったいないでしょ!」
 と、重ねて叱られて、私はこらえていた涙が溢れ出してしまった。
 Aお姉様は、それを見て、手におえないとおもったのだろう。
 「もう知らないわ。できたら呼びにきなさい!」
 そう言って立ち去った。やっと1人になれた私は、トイレにうずくまって、便器の上に顔を伏せたまま、ポタポタと涙を落として、気がすむまで泣いていた。
 私は、箒を使っての掃除も下手で、何度もやり直しを命じられた記憶がある。自分では一生懸命に掃いているのだが、ゴミをうまく集められずに、かえって散らかすような掃除の仕方だったのだろう。
 そんなわけで、私の印象にあるAお姉様の顔は、眉根を寄せて怒っている顔ばかりになってしまった。けれども、Aお姉様も、くーちゃんあたりが、気のきいた冗談などを言うと、目尻を下げてコロコロと楽しそうに笑う普通の女子高生だった。つまり悪かったのは、教えても教えてもできない私のほうだったのである。

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2段ベッド立てこもり闘争

 最初のお部屋でのできごとでは、もうひとつ、忘れられない場面がある。それは、まきちゃんの「2段ベッド立てこもり闘争」だ。
 まきちゃんは、私と同じ中等部2年生で、誇り高い人だった。小柄ながら、額が広く、切れ長の目をした聡明な少女だった。映画や文学が好きで、歌が上手で、映画「サウンドオブミュージック」の歌などは、英語の歌詞を覚えていて、明朗な声で歌って聞かせてくれたものだ。
 そのまきちゃんが、ある日、Aお姉様と大喧嘩をした。
 まきちゃんは、自分の寝床である2段ベッドの上の段に仁王立ちになって、箒をブンブン振り回しながら、Aお姉様を振り払っていた。
 「降りてきなさい!」
 Aお姉様は、金切り声をあげながら、自分も箒を持って、まきちゃんに対抗したけれども、まきちゃんの振り回す箒の迫力に負けて、へっぴり腰になっていた。
 そこへ、Aお姉様の同級生たちが、どやどやと加勢に来て「まきちゃん、降りなさい!」と口々に言った。
 「いやです。Aお姉様が謝るまで、あたし絶対に降りません!」
 まきちゃんは、きっぱり言って、今度は箒を構えて、じっと座り込んだ。
 そこへ高等部3年の背の高いお姉様がやってきた。Aお姉様たちが、あわてて引き下がると、そのお姉様は、まきちゃんの正面に立って、それぞれからわけを聞いた。そして、「Aちゃん、まきちゃんに謝りなさい」と言った。
 それで、Aお姉様も、しぶしぶ謝ったのだろう。
 まきちゃんは、ベッドの梯子段を降りると、「里枝ちゃん、行こう」と私に声をかけた。そして、私の先に立ち、上級生たちの間を抜けて悠々と部屋を出て行った。
 まきちゃんがそこまで戦った理由がなんだったのかは思い出せない。だが、その場面を思い出すと、あのときまきちゃんは、自分自身と、叱られるままになっていた私と、2人分のプライドを守るために戦ったのではないかと想像が働くのである。

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木陰の通学路

 クラブのない日は、同じクラスだったあきちゃんやまっちゃんと一緒に帰ることが多かった。
 裏門を出て、しばらく修道院の垣根に沿って平らな道を歩き、それから左に曲がり、急坂を登るコースだ。垣根に沿った道には、修道院から伸びた木々の枝が木陰をつくって、さわやかな風が吹き抜けていた。そこは学校でもなく寄宿舎でもない貴重なフリースペースだった。
 あきちゃんとの想い出も、この帰り道の情景のなかに浮かんでくる。
 あきちゃんのお下げ髪は、先が細くてピョンと飛び跳ねていた。S学園では、髪をすいたり、前髪を切ってはいけない決まりだったが、あきちゃんは、美容院を開いていたお母さんに、髪をすいてもらっていたのだろう。スカートは、少し長くしてあって、これは当時はやりのスケバンスタイルを、あきちゃんなりに、ちょっとだけまねたものだったらしい。
 あきちゃんは、革の手提げカバンを振り回しながら肩をゆすってのっしのっしと歩く。笑うときは、顔いっぱいに口を開けて、おなかをかかえて豪快に笑う。そんな開けっぴろげなあきちゃんが、私は大好きだった。
 「今度Aがうるさいこと言ったら、すぐにあたしに言いな。あたし、文句言ってやるから」
 あきちゃんは、目をくりくりさせながら、拳で自分の胸をばんと叩いて、私にそんなことを言う。
 「あきちゃん、やめときな。ややこしくなるだけだよ。それより、まきちゃんに任せたほうがいいよ」
 傍で諌めるのは女房役のまっちゃんだ。
 「だってさあ、頭にくるじゃん。Aのバカー!アホー!クソッタレー!」
 あきちゃんは、そんなことを叫びながら、そこらの小石を、えいっと蹴り飛ばす。
 私がおもわず笑いだすと、いっそうおもしろがって、私が「ああ、おなか痛い〜 あきちゃん、もうやめて〜」とあえぐまで笑わせた。
 また、あるときは・・・
 私が「ねえ、夜中に食堂のモナリザの絵が額から抜け出して、寄宿舎の中を歩くって話、聞いた?」と怖がって聞くと、あきちゃんは、ブーっと噴き出した。
 「アハハ・・・それ、あたし!あたしだよ!」
 あきちゃんは、自分の鼻の頭を指さした。そして、「これ、誰にも言っちゃ駄目だからね」と、私とまっちゃんに口止めしてから、わけを教えてくれた。
 その晩は週末で、お部屋の他の2人は帰宅してしまったので、あきちゃんと、Bお姉様は、消灯時間が過ぎてからも、楽しく遊んでいたのだそうだ。Bお姉様は、私たちより1つ上の学年で、あきちゃんのいたずら仲間だった。
 そのうちに2人はおなかがすいてきたので、台所の食料倉庫へ行って、何かちょっと失敬してこようということになったのだそうだ。
 ここまで聞いただけで、私とまっちゃんは「うわっ!」とのけぞった。
 寄宿舎では、食堂以外で一切お菓子を食べてはならず、お菓子を買った場合は、食堂の自分の引き出しにしまっておくことに決まっていた。その引き出しへ、お菓子をとりに行くというなら、自分でも考えつきそうだが、台所の奥の食料倉庫まで行くとは、なんて大胆なのだろう。
 あきちゃんとBお姉様も、さすがにこれは見つかったらまずいぞと思ったので、バスタオルを頭からかぶり、体には黒っぽいものを巻きつけて変装してから、裸足になり、抜き足差し足で出かけたのだそうだ。
 「こんなふうにね」
 あきちゃんは、ピンクパンサーのテーマ曲を口ずさみながら、腰を落として、そのときの抜き足差し足をやってみせた。
 私とまっちゃんは、おなかをよじって笑いながら「それで?」と続きを聞きたがった。
 すると、あきちゃんは、更に身振り手振りを加えながら、食堂までたどりついたところで誰かに見られてしまい、悲鳴をあげられたので、そのままお化けになりすまして、つつつーっと爪先立ちで歩いて逃げて帰った顛末を聞かせてくれた。
 これが「S学園寄宿舎の7不思議」として代々語りつがれた「夜中にさまようモナリザ事件」の真相である。
 その後、私は寄宿生たちが、食堂の正面に飾られた大きなモナリザ像をちらちら見ながら、怖そうにその話をするのを聞く度に、噴き出しそうになるのを我慢するのに苦労した。

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お転婆探検隊

 我が姉妹たちが、集まる度に懐かしく話題にするのは、週末に、みんなで箱根のあちこちを探検して歩いたことだ。
 寄宿舎には週末ごとに帰宅する「帰宅組」と、長期の休み以外は帰宅しない「居残り組」がいた。私たちの学年では、くーちゃんとまっちゃんが「帰宅組」で、あきちゃんとまきちゃんと私が「居残り組」だった。それでもどこかへ出かけるときは、くーちゃんとまっちゃんも喜んで居残ったので、いつでもみんな一緒だった印象がある。
 仲良し6人組のもう1人であるやまもっちゃんは、私より後から入舎したので、最初の頃は、いなかったのだろうが、やまもっちゃんもまた、いなかったときなどなかったような気がしてならない。
 足の向くまま気の向くまま、強羅周辺を探索して歩いていた私たちが、まず興味をもったのは、幽霊屋敷のような古い別荘の探検だった。箱根には、戦前に外国人が建てたらしい別荘が、当時、あちこちに放置されていた。扉にも窓にも板を打ち付けたまま、風雨にさらされてぼろぼろになって建っている洋館を見ると、私たちは無性に想像力をかきたてられた。
 そこに踏み込むのは、要するに不法侵入なのだが、私たちは、苦心して扉の板を外して、薄暗い家の中を恐る恐る覗いた。すると、埃の積もったテーブルの上に、昔の新聞らしきものが置いてあったり、鉄製のベッドのわきに、写真立てらしきものが見えたりする。
 「入ってみようか・・・」
 誰かがそう言って、気味悪い部屋に踏み込んで行くと、1人で行かせるわけにはいかないというので、みんなもそろりそろりと後に続いた。夜盲の私も、みんなに前後左右を護られて、忍び込むのである。
 それでいて、「ミシッ!」などと音でもしようものなら、「ラップ現象だあ!」などと叫んで、手をとりあって逃げ出した。そんな他愛ないことが愉快でならなかったのである。
 私たちは、舎監のマスールに頼んでおむすびを作ってもらい、強羅から芦ノ湖あたりまで遠足に行ったこともある。時にはモノレールやロープウェイに乗って、大湧谷や、仙石原のほうへも足をのばした。
 仙石原は、一面のススキの草原だった。丈の高い銀色のススキをかき分けながら、みんなで列を組んで進んで行く。それだけで私たちは最高に痛快だった。
 自然にできたステージのような素晴らしい見晴らしの開けた所に出て、みんなで歓声をあげたこともあった。しばらく風に吹かれてその景色に見とれるうちに、誰かが「ねえ、いつかここであたしたちの映画を撮ろうよ」と言い出した。「絶対やろう!」と、みんなが賛成した。
 自作映画はミュージカル。主人公は私たちと決まり、みんなは草の上に座りこんで、空想の翼を羽ばたかせながら、シナリオ作りに熱中した。くーちゃんがリュックサックからノートと鉛筆を取り出して、みんなが口々に言うことを書いている。
 そのうちに、「ねえ、まきちゃん、その場面、ちょっとやってよ」ということになったのだろう。まきちゃんが、頬を紅潮させながら草のステージの真ん中に進み出て、きれいな響きのある声で女優のように歌いだすと、あきちゃんとまっちゃんが、すぐにバックダンサーになった。何しろまっちゃんは、即興で猫にもおばあさんにもなれる演劇部のホープだ。それに、あきちゃんときたら、小さな頃から日本舞踊をやっていたせいか、目の動きや首の動き、指先や足の動きまで、色っぽかったり、ユーモラスだったりで、たいした表現力なのだ。
 やがてくーちゃんと私も、一緒になって歌いだし、踊りだしたのだろう。ラストシーンは、全員が横一列に並んで足をそろえて踊ったラインダンスだった。そのみんなの上気した顔を、夕映えが金色に照らし、ススキの草原は、夕風に波うって、ざわざわと音をたてはじめていた。
 この日も我ら探検隊は、私の手を代わる代わる引っぱりながら、必死に走って帰ったにちがいない。いつものように寄宿舎の門限に遅れて、くーちゃんを先頭に、全員が並んで「マスール、申し訳ございませんでした」と、声をそろえて謝る結末ではなかったろうか