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里枝子のエッセイ

父の跡を慕って

2012年1月10日

 静岡県沼津市に住む原伯母と一昨年の暮れに電話で話したおりに、伯母に会いに行きたい、父の話を聴かせていただきたいという願いをもちました。
 私が初めて伯母に電話をするきっかけになったのは、伯母が私の作文が受賞した小さな新聞記事をみつけて母のところに祝福の電話をくださったことでした。伯母と話すのは、父の通夜以来、11年ぶりのこと。その前に話したときといえば、もう思い出せないくらい昔のことです。原伯母は8人いる父の兄弟のうち、上から4番目の姉ですが、伯母と従姉の秀子さんは、宗教上の理由で、仏教の法事などには一切出席されないため、親戚の中でも、原伯母は最も会う機会が少なかった方でした。
 それなのに、久々に聴く伯母の声は、私の心を懐かしい温かな気持ちで満たしてくれました。伯母の声には、長い人生をしっかりと生きてきた人の何とも言えない包容力と威厳が備わっていました。その声には、二度と聴けないと思っていた父そっくりの響きがありました。
 父が親しかった兄弟は次々と亡くなってしまったので、もう父の幼い頃からのことを知っていて、話していただける方はほとんどいなくなってしまったように感じていました。でも、そのときに、この伯母が居てくださった!ぜひお会いしてお話を伺いたい!と、強く願ったのでした。
 その1年越しの願いが叶って、私が友人の芹沢文子さんと盲導犬のネルーダと一緒に伯母を訪ねたのは、昨年の12月4日のことでした。文子さんが、1日を割いて同行してくださったおかげで、安心して伺えることになったのです。
 私たちは三島駅で新幹線を降りて東海道本線に乗り換え、沼津駅の次の片浜駅で降りました。到着したのは12時40分。待ち合わせの1時半までは50分もありましたから、その間は駅で待つつもりでした。
 ところが、電車のドアが開いて2人と1匹でホームに降り立つと、そこにはもう従姉の秀子さんが居て、懐かしそうに声をかけてくださったのでした。
 秀子さんは、私が赤ん坊だった頃から小学校1、2年の頃まで、よく家に子守に来てくれた従姉です。その頃、秀子さんは中学を卒業したばかりだったそうです。私は秀子さんが大好きで、よくおんぶしてもらいましたし、「チューちゃん、チューちゃん」と呼んで姉のように慕っていました。お会いするのは40数年ぶりのことでしたが、素朴で芯から真面目な秀子さんの雰囲気は、思い出のなかの秀子さんそのものでした。
 駅を出て歩き始めると、上着を着ていたら汗ばむほどの暖かさでした。「これは夏蜜柑の木ですか?」と文子さん。「ええ、そうです。このお家では、毎年たくさん夏蜜柑がなります」と秀子さん。人家の庭に、黄色く熟れはじめた夏蜜柑が、たわわに実っていたそうです。蜜柑や柚子も、緑色の実をたくさんつけていると聞いて、故郷の沼津に帰って来たことを実感しました。
 しばらく行くと、「山茶花がきれい・・・」と文子さん。緑の垣根に、山茶花が濃いピンクの花を咲かせているのを文子さんと秀子さんが2人で説明して、触らせてくれました。その垣根の下には、早くもスイセンが花を開きかけていました。
 私はその山茶花の垣根に触れ、スイセンの清らかな香りを嗅ぎながら、沼津で暮らしていた頃の父の花いっぱいの庭と、路行く人に楽しんでもらうために、垣根の下に、花盛りの鉢をずらりと並べていたことなどを懐かしく思い出しました。
 伯母と秀子さんが暮らす住まいは県営住宅の一角にありました。私たちが到着すると、2人の声が迎えてくれたので驚きましたが、伯母の誘いで、亡くなったご長男のお嫁さん、茂子さんが、私たちのために来てくださっていたのでした。
 伯母は94才。茂子さんは69才。秀子さんは68才。どなたもその年齢とは思えないくらい若々しく、中でも驚くほど生き生きしていたのは伯母でした。
 伯母は「この歳になると、細かなことはみんな忘れてしまうの。ごめんなさいね」と言いましたし、歩くときにふらふらすることはあるそうです。けれども、体は悪いところがどこにもないとのこと。記憶も声もはっきりしていて、人を公平に大切にする姿勢は筋金入りと表現したくなるほど一貫していて、このように年を重ねたいと思う模範のようでした。
 父の記録によると、原伯母は1917年生まれ。20歳の頃に沖電気の技師だった原叔父と結婚。叔父はハンサムで体の大きい優しい立派な人で、父は千葉の手賀沼などへ、よく釣りに連れて行ってもらったそうです。夫妻は一男一女をもうけましたが、終戦直前に叔父は応召され、南方戦線、ニューギニアのガダルカナル島で戦死されました。
 その後のことは、今回、伯母と秀子さんと茂子さんの3人から、美味しいお昼ご飯をご馳走していただきながら初めて伺ったことばかりです。
 伯母は30代から50代の長きに渡って、母子寮の寮母であり、責任者でした。戦争で同じように夫や父親を亡くした家族たち50人の母親役として働いてきたそうです。「女性の世界は色々あったのよ。でも、子どもたちが一人残らずみんなまっすぐに育って、全員が社会人になりました。それだけが私の誇りです」
 清々しくそう語る伯母に、私は尊敬の気持ちを抱かずにおれませんでした。伯母は、女手ひとつで一男一女を育てあげただけでなく、50人もの家族を支えて大勢の子どもたちを自立させた人だったのです。
 また、ご長男が働き盛りに亡くなったため、叔母と茂子さんと秀子さんの女性3人が、いかにお互いを支えあい、助けあって生きてきたかということも、3人の会話や、お互いを認めあう関係からよく伝わってきました。他にも、多くの人から慕われたご長男の思い出や、お孫さんやひ孫さんたちの楽しいお話、信仰のお話など、様々なお話を聞かせていただきました。
 そのなかで、父の思い出について語っていただいた部分は、録音させていただいたので、以下に記します。父の思い出を聞かせていただくひとときは、私にとって心温まる幸福な時間でした。録音を何度も聴いて書き写し、書いたものをまた何度も読み返しながら、伯母たちからいただいた思い出の贈り物を抱きしめています。

インタビュー

 里枝子 「父の子ども時代のことから聞かせていただけますか?」
 伯母 「北島家では、晨吉さんは8人兄弟の一番下の息子です。兄弟たちからも可愛がられて、もちろん両親からも可愛がられて、学校でも優秀だったの。とても明るい少年でね。お正月になると、家の瓦屋根に上って凧を揚げたりするの。東京には凧揚げするような空き地がないですから。私は、あんな高い所に上らなくてもいいのにと思いながら見てたんですけどね。(笑い)そういう冒険もするの。まあ、怪我をしなくてよかったですけどね。その凧も自分で作った凧でしたよ。模型飛行機なんかもたくさん作ってましたね。そういうことが、そりゃあ得意でしたものね。あの頃は、小学生だったかなあ。思い出がいっぱいありますね」
 里枝子 「父は額に陥没したような跡がありましたでしょ。あれは小さい頃に、住み込みの若い大工さんの背中に乗せてもらってお馬さんごっこをしていたときに、その大工さんの両方の目を手で塞いで『走れ!走れ!』とやったものだから、大工さんが暴れ馬になって、父は落馬してしまい、ドアの蝶番の突起に額を打ち付けたと聞きました。父は、ずいぶんやんちゃ坊主だったんじゃないでしょうか?」
 伯母 「そういうことがあったでしょうね。家には、これから大工さんになろうという未成年者の大工さんが、いつも3、4人はいましてね。うちの父は、うちの子どもと若いお弟子さんたちと、区別がつかないくらいの可愛がりようでした。だから、きっと遊んでもらったんでしょう。でも、おでこに凹みがあっても、晨吉さんにとっては何にも障りなかったわね」
 里枝子 「父と伯母様は幾つちがいですか?父は伯母様に遊んでいただいたこともあったでしょうか?」
 伯母 「晨吉さんは巳年でしたね。私も巳年ですから、晨吉さんとは、ちょうど一回りちがうんですね」私が小学校の6年生ぐらいのとき、学校から帰って来ると、母は大工さんが何人も居たりで忙しいでしょう。それで、『弟や妹をみんな連れて子守しなさい』って言うんです。そうすると弟が2人に、妹が2人。4人の兄弟を引き連れて芝離宮庭園という庭園へ出かけたものでした。家が浜松町だったんでね。その大きな庭園は、浜松町の駅のすぐ裏にあったの。そこへ私は子どもたちを全部引き連れて行って、その頃から保母さんみたいでしたよ。(笑い)そこは向こうが東京湾の海でね。徳川時代に造ったのではないかと思うんですけどね。綺麗な松などを配して、芝生があって、ツツジの花が咲いていて、とてもよくできている公園なんです。こっちの方には長い砂浜があって、そこには弓道場があったり、海の水が庭の中にずっと入っていて。園庭さんがいつもいつも芝を刈っているような人の手が届いた綺麗な所でした。そこで、みんな思い思いに遊んでもらうの。私は傍で見てるの。日が当たって、綺麗な清潔な所ですから、そこで何時間も遊んで大きくなりました」
 里枝子 「すてきな庭園が遊び場だったんですね。お話を伺って、兄弟が遊んでいるようすが目に浮かぶようです。父は小学校を卒業してから、その後どうしたのでしょうか?」
 伯母 「晨吉さんは、小学校を卒業してから、東京都立高輪工業学校に入ってね。その頃に私たちは三田の三幸町で戦災に遭いましたから、すっかり焼け出されたんです。それから日本が負けたことになって、沼津に疎開しました。でも、晨吉さんは工業学校に行ってましたから、疎開するわけにいかなかったんです。あと1、2年で卒業だったから。そこで、うちのお父さんの弟、叔父さんのところに一時期預けて卒業させてもらったわけです。晨吉さんは、ずうっと1番だったのね。それだもんですから学校の先生がね、『おまえはこれから上の学校に上がるなら別だけど、他にもっと上に上がりたい子があるから、おまえのトップを譲ってやってくれ』って言われて他の息子さんに1番を譲ったと、うちの父がそう言ってました」
 里枝子 「そうでしたか・・・ 1番を譲った話は、父からは一度も聞いたことがありませんでした。父は工業学校時代に勤労動員で新潟あたりに行って働いた話はしていたんですけど、そのことはご存知ですか?」
 伯母 「それは知りませんでした」
 里枝子 「私は父から、自分は声が大きかったので、勤労動員で行った工場で、上の人から『おまえは一番声が大きいから隊長になれ』と言われて生徒の責任者になったことを聞きました。母は父から『勤労動員で蕪の煮たのばかりを食べたので、結婚したら蕪の煮たのだけは食べさせてくれるな』と頼まれた話をしていました。(笑い)ところで、父は癌が進行して意識がなくなってしまったときに、『火事だあ!火事だあ!みんな逃げろー!逃げろー!』って、大声で叫び続けたことがありました。東京大空襲のときの記憶が蘇っていたのじゃないかと思ったのですが、伯母様は、東京大空襲のことは憶えていらっしゃいますか?」
 伯母 「ええ、憶えています。そのときちょうど息子が山梨県に疎開してたものですからね。秀子をおぶって荷物を持って面会に行ったんですね。そしたら、沼津駅あたりで空襲警報が鳴ったから、みんな隠れたんですよ。そのときに大きな飛行機の連隊がばあっと東京へ向かって行ったんです。それで東京は焼けちゃったの。そのときの空襲でしょうね」
 里枝子 「家が焼夷弾の直撃を受けたとき、父は青年消防団の一員で、家を守ろうと屋根に上って必死に火を消したそうです。けれども、辺りが火の海になってしまったので、布団を池に放りこんでびしょびしょに濡らして、それを頭からかぶって火の中を逃げたと話していました」
 伯母 「確かにあの家には小さな池がありましたから、そこに布団を入れて濡らして最後までとどまったんでしょうね。小さな池でしたけれど、石灯籠が立っていて、金魚がいたから、あそこじゃないかと思うわ」
 里枝子 「そうすると、父は家が空襲にあった後も、伯父さんと一緒に焼け野原の東京にとどまって、工業学校を卒業してから沼津へ移り住んだわけですね」
 伯母 「叔父さんは東京に仕事がありましたから来れなかったんですけど、晨吉さんは、卒業した後はこっちへ来て、母と私と妹二人と晨吉さんと私の子どもたちとみんなで暮らしました。 沼津に親切なお家があってね。喜んで部屋を貸してくださって、それでどうやらそれぞれ落ち着くようになったんです。でも誰も収入の道はないですから、みんな今あるもので生活してたんです。 晨吉さんは、まだ若くて力があったものですから、浜のほうでお船で物を運ぶ仕事をしました。沖仲仕っていうんですかね。あれはまだ10代だったのに、そういう仕事に就いて働きました。まだ17か、18か、19だったのに、家族のために何でもしようという精神があったんですね。沖仲仕までもしようというね。偉いですね。 でも、そのうちによい就職先が決まってよかったです。沼津の我入道のほうにある大同コンクリートに採用されて、秩父工場では工場長さんでしたね。それから愛知県の春日井市でしたっけ。あそこでは大水にあったんでしたね。 だけど、貴女のお母さんはご苦労されたでしょうね。本当によく尽くしてくれたと聞いています」
 里枝子 「伯母様にそんなふうに認めていただけると、母もうれしいと思います。ところで、私は父の両親、私のおじいちゃんおばあちゃんのことをほとんど知らないのですけれど、どんな方だったでしょうか?」
 伯母 「うちの父は東京の奥多摩というところから出たんです。奥多摩には御岳神社があって、私たちの祖父はそこの神官でした。でも、長男の人がいましたから、跡を継ぐわけではなくて、父は建築の仕事を覚えたんですね。しばらく沼津におったんですけれど、東京に出ることになって、大工さんの棟梁という立場で、大勢の大工さんを使って東京のあちこちに家を建てていました。 それと、昔風の数寄屋造りが上手だったらしいですよ。一番最後には、増上寺の迎賓館を造ってくれって言われて。増上寺は目と鼻の先でしたから、迎賓館を造ったらしいですけどね。空襲で、みんな焼かれちゃったんです。ですから、今は残っていないんです。とても残念がっていましたね。 父は優しいおとなしい人でした。大きな声を出したことなんて一度もない。いつでもにこにこしてね。楽しみに晩酌なんかしてね。子どもたちとふざけたりしてね。 そんな父でしたのに、父は沼津へ疎開してから体を壊しました。一人で東京へ出て、色々仕事をしたものですから、栄養失調じゃなかったかと思うんです。当時は多くの人が亡くなりましたが、父も60才で亡くなりました。今から考えると若いですね」
 里枝子 「父は亡くなったおじいさんの遺体をリヤカーに載せて、一人で街外れの焼き場まで運んだと話してくれたことがあります」
 伯母 「その頃、晨吉さんはこっちの沼津の家にいまして、一生懸命こっちの家族を心配してくれてました。私のすぐ下の弟は、まだ戦地から帰っていませんでしたから、晨吉さんがきっと主になってお葬式をしてくれたんだと思います」
 里枝子 「父のおかあさん、私のおばあちゃんは美人でしっかり者だったと聞いていますが、そうだったんですか?」
 伯母 「そうなの。年とってましたから、私らは美人だなんて思わないですけどね。(笑い)母に似ていて美人だったのは、一番上のきー姉さん。京まち子さんに似てましてね。 でも、私は父親似なんです。父に似ると、こういうふうに目が垂れ下がってね〜(笑い)」
 文子 「いいえ、とてもおきれいです」
 茂子 「それに若々しくて、私なんかよりずっとお元気ですよ。94才には、とても見えませんよ」
 里枝子 「伯母様の元気で長生きの秘訣はなんですか?」
 伯母は娘の秀子さんのほうを向いて 「この人がいるから生きていられるの」
 秀子 「そうですね、お互いに。(笑い)」
 里枝子 「なるほど、よくわかります。最後に、父のお通夜のときに伯母様がしてくださった『父がモーゼになった話』をもう一度聞かせていただけませんか?私は伯母様からあのお話を伺って、どんなに救われたか知れません」
 伯母 「あれは晨吉さんの病気がもう悪いときだったけど、私がお見舞いに行ったときに聞かせてくれたの。 白い杖を持った目の見えない人が沼津駅で降りて、先へ行こうとしていたそうです。ちょうどそこに沼津港案内所行きのバスが来るところで、大勢の観光客で歩道が全部埋まってたんですって。そしたら、目の見えない人は、どこを通っていいかわからないでしょう。困っていてね。それで晨吉さんが『その道、開けろー!開けろー!開けろー!』って大きな声で言ったって。そしたら、みんながびっくりして、さあーっと道を開けたって。それでその見えない人は、通ることができたんですって。晨吉さんは、その話を私にしながら、『ちょうどモーゼが紅海を分けたときのようだった』って言ったの。さあーっと潮が引くようだったって。 『いいことしたねえ』って、私は言って、泣けちゃったの。 確かに晨吉さんは、思いやりがあって、非常に真っ正直な、頭の切れる、どこから見ても良い男性でしたよ」