ここから本文です。

里枝子のエッセイ

家族と友に支えられて

「婦人の友」掲載(1987年)

 「お母さん、目医者さんって、行ったことある?」と長男の晶久(三歳)。
 「あるある、何度も、何度も」
 「また、行く?」
 「もう行かない。お医者さまがお母さんの目はよくならないから、もう来なくてもいいって言ったもの」
 「こまったお医者さまだね」
 「でもね、お母さんは目のかわりに、神さまからおじいちゃんやおばあちゃん、お父さんや晶ちゃんや全紀ちゃん(次男・2歳)や、キュリーちゃん(盲導犬)や、ネッ、こんなにいっぱいやさしい家族をもらったから、大丈夫なの」
 「お母さん、よかったね。お母さん、大好きだよ」晶久がとびついてきます。
 盲導犬との出会い、そして結婚、出産、子育て・・・目の見えないハンディをこえて今の生活があることを思うとき、ひとりの女性として当り前に生きたいという私の意志と希望をかなえようと、そのおりおりに力を尽くして応援して下さった方々に、感謝せずにはおられません。

私は「目の不自由な娘」だけなの?

 ふりかえってみると、私が大学受験のために、初めてこの信州の地を訪れてから、10年がたとうとしています。大学3年のとき、同じ大学の聾唖の友人が講義が聞きとれず悩んでいたり、脳性マヒの友人が答案を書くのに手間どって試験の時間が短くて困っているのを知り、友だちと「学内の障害者の要求を実現する会」をつくりました。そのとき、非障害者として参加して来た彼。はじめての出会いでした。
 小学2年の眼科検診で進行性の網膜色素変性症と診断されて以来、弱視がだんだん進み、いつか失明する日が来るのは覚悟していましたが、大学4年の頃には、文字は読みにくく、物につまずくことが多くなっていました。そのころの私は、講義の合間に録音資料をつくり、点字やカナタイプを習い、1日おきには1日がかりで病院に通っていたのです。彼は、そのすべてにつき合って、ほんとうによく助けてくれました。
 傍目にはしっかり障害に立ち向かっているようにみえても、内心は失明へのおそれ、将来への不安で一杯だった当時の私には、彼がいつもそばにいてくれることが救いでした。
 ところが、卒業がせまったある日のこと、彼がふいに、父親に「目の不自由な娘に結婚を申し込もうと思う」と話してみたのだが・・・と言い出したのです。父親は、「これだけ苦労をして一人息子のお前を育ててきたお母さんを、お前はまだ苦しめるつもりか」と言ったきり、とりあわなかったと―――。
 私は彼の言葉が終るか終らないうちに、「あなたは私について、目が不自由ということしか知らないの?私は私なのに!あなたが一番私のことを知ってくれていると思っていたのに。何でそんな言い方しかしてくれなかったの?」と叫んだことを覚えています。彼や、彼の両親の立場は痛いほどわかっていたものの、そうでも言ってはねかえさなければ、「目が不自由」という一言のなかに、これまでの思い出も、未来も、全てが埋めこまれてしまいそうで、おそろしくてたまらなかったのです。「誤解だよ」彼は何度もいいながら抱きしめようとしました。その腕を避けるように、私は壁際までのがれ、ガタガタとふるえていました。
 その後、彼は両親のいる長野県に、私は愛知県の点字図書館にと、就職して別れ、再会したのは半年後。ほかの人の意見はどうあれ、おたがいの気持を見すえていこう、と話し合ったのでした。

家族と友に支えられて

 3年ののち、私たちが彼の実家へ結婚の意志を告げに行くと、彼の父はただ一言、「そんなに愛していただか。わかった」と認めてくれました。長い月日をかけて固めてきた二人の気持を知り、不安を超えて祝福してくれたのだと思います。
 結婚式の打合せに双方の両親が初めて顔を合わせたとき、私の父は「目が悪くなると聞いて以来、心配しつづけていましたが、この子自身で道を開いて来ました。芯のつよい子だから頑張ってくれるでしょう」と涙ぐんでいました。自分で求めて中学時代から家を離れて生活してきた私を、自立心を育てるためにと、どんなに深い思いをこめて見守っていてくれたことか・・・父母のためにも幸せになろうと心に誓いました。

乳房を支えたちいさな手

 こうして私たちは、この信州の山里に、夫の両親と棟つづきの家で、新しい出発をしました。
 はじめてする家事は悪戦苦闘の連続。せっかく作ったシチューの鍋に手をひっかけてひっくり返し、情けないやら悲しいやらで坐り込んでただ泣いていたら、夫が帰って来て片づけてくれたこともありました。でも、毎日食事つくりを続けるうちに、きざみものは左の指で計りながら一定の大きさに切ることを覚え、天ぷらも安全な電磁調理器をつかい、水でぬれた箸を油に入れてジュッという音で温度を知ってカラリと揚げられるようになるなど、今では楽しく家事ができるようになりました。いっしょに暮らしてみると、農業と建設業を営む苦労人の舅は心から私を応援してくれますし、無口で働きものの姑は、会社の事務や農業に忙しい中で、私が困っていると黙って手をかしてくれるのでした。
 やがて、私たちの間に、待望の長男が生まれました。けれども夫とともに喜びにひたっていた私は、産後まもなく自分の視力が、また一段と落ちて、ほとんど見えなくなっていることに気づきました。
 その重苦しい緊張感の中で、私たち親子が最初に出会った関門が授乳です。乳首が扁平だったこともあって、お乳はすぐに口からはずれてしまい、子どもは体を揺すって泣き出します。すばやくくわえさせてやりたくとも見えないので子どもの動きについていけません。激しく泣き続けるわが子を抱きしめながら、涙のとまらない夜もありました。
 けれども、看護婦さんや助産婦さんたちのねばり強い指導を受けて、私がどうにか上手に子どもを抱けるようになった朝のことです。乳房をぎゆっとつかまれるのを感じたと同時に、同室のお母さんが「赤ちゃんが手で持って飲んでるわよ」と叫ぶように教えてくれました。驚いたことに子ども自身も小さな手でしっかりと乳房を支えて飲み出したのです。居あわせた方たちは、みな拍手を贈ってくれました。晶久生後6日目の出来事です。
 それからも1年くらいの間は、予想以上にとまどうことの多い、外出もままならない生活が続きましたが、このときの感動が励みとなって、家族に支えられながら、何とか乗り切ることができたように思います。

家族みんなの励ましの中で

 その頃、夫はサラリーマンをやめ、家業を継ぐことになりました。盲人を妻にするなんて、よほど妻子の世話をよくする聖人君子のような男だろうと、一般には思われるかもしれませんが、家事育児は妻にまかせて、自分の仕事に専念しているごく普通の夫です。
 障害者と暮らしていると一番思っていないのが彼かもしれません。来客があると、私を心配してお皿やら何やら持って走りまわっているのがお客さま。彼は「里枝子がするから大丈夫だよ」とどっかり坐って悠然としているのです。
 そのかわり夫は、私のしたがることは大抵認めてくれます。先廻りして手を貸すことはしませんが、援助をたのめば引受けてくれます。そんな夫だからこそ、かえって私はのびのびやってこれたのでしょう。
 私の行動の限界を子どもの限界にしたくない。より豊かな子育てをするために盲導犬を手に入れたいと願ったときも、1カ月間住み込みで受けねばならない訓練を思い、10カ月の晶久をおいて家を空けるのをためらう私を励まして、子どもの世話を姑に頼み、準備万端整えてくれたのも彼でした。
 このときも快く送り出してくれた舅と姑は、家族の絆を大切に、子どもにも心を込めて接し、導いてくれます。
 そして、私が困り果てているときに、思いがけない解決の道を切り開いてくれるのが、子どもたち自身です。私は彼らの生きよう、伸びようとする力に、どれほど助けられたか知れません。離乳食を与えようとして口にスプーンをうまく入れられずに苦労していると、子どもの方から私の手をとって口へ導くようになりましたし、歩きはじめてからも困ったのは一時期で、そのうちには、決まって私の手をとってから移動するようになりました。
 次男の全紀が生まれ、生活にあわただしさが増してからは、長男の目配りに助けられることもしばしばです。ある時、晶久の「お母さ−ん、来てー、マサキ落ちちゃうよー、ウワーン」という悲鳴!「アキ、どこ?どこにいるの?キュリー、フォロー・アキ」ようやくたどりついたら、はいはいの早くなった全紀が、フェンスの穴から身を乗り出し危うく山崖から落ちかけたのを、晶久が必死で抱きついて止めていたのです。私は夢中で二人を抱きしめました。こうしたいくつかの事件をのりこえ、いま私は、晶久にも全紀にも兄弟がいたことを本当によかったと思います。
 子どもに絵本を読んでやりたいとの願いが地元のボランティアグループとの出会いとなり、盲女性の方たちとの親しい交流もはじまりました。私たちの暮しはどんどん広がり、家族の協力もより堅固なものになってきました。

意志と希望に支援を

 いま、胸の痛みとともに思い出されるのは、婚約までしながら、周りの人と相談するうちにかえって自信をなくしてしまい、結婚をあきらめざるを得なかった人や、人形をわが子のように可愛がり、朝夕いとしげに服を着せ替えてやっていた人の姿です。私が障害者施設で働いていたとき、出会った女性の中で、好きな人と一緒に家庭をもてたらどんなにいいだろう、という夢を胸に秘めていない人はいませんでした。
 一人の人間としての当り前の願いを、まるで運命のようにあきらめざるを得ない重度障害者たちの現実・・・身近な障害者が、進学や結婚、出産を望んでいるとき、たとえ一人では難しくても、多くの人に助けられ、盲導犬や車椅子やさまざまな道具を工夫することで、当人たちの意志を可能にする道を、どうか一緒に考えていただければ、と思います。私の家族はごく平凡な人たちですが、みんなが私を支えてくれました。周りの人さえその気になれば、目の前が開けてくることもあるのではないでしょうか。
 一人でも多くの方が、障害者の「不足した能力に目を向ける」のでなく、「求める意志や希望」に力をかして下さることを、そして私たちと一緒に、この重い現実を一足ずつでも動かして下さることを、心をこめてお願いしたいと思います。
 今日も晶久は弟の手をひいて歩いています。「全紀、それはドングリだよ。食べられないからね。お口入れないでね」と声をかけたり、「お母さん、そこ、蜂の巣あるからね。もっとこっち寄りなさーい」と私にも注意してくれます。全紀もゆっくり歩いていく私とよりも、お兄ちゃんと跳ねまわって歩くほうが楽しそう。これからもきっと兄弟助け合って生きてゆくことでしょう。
 こうして子らの将来に想いを寄せつつ、キュリーと一緒に歩いてゆくと、信州の厳しい寒さもここちよくさえ感じられる、冬の坂道です。