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里枝子のエッセイ

転機を越えて

「点字毎日新聞2001年新年号」掲載

 小学校1年生の時に、両親から網膜色素変性症らしいって聞いたんです。両親は私を納得させて病院に連れて行きたかったんでしょう。悩みをまだ悩めない時期に、いつか失明することを知り、漠然とした不安の中で成長しましたね。

 両親は先生から盲学校を勧められましたが、盲学校は寄宿舎に入るのが条件でした。幼い私は、見えなくなること以上に、家族から引き離されるのが怖かった。母が頼んでくれて普通学校に通い続けましたが、その代わり「見えないとか、できないとか言っちゃいけない」って自然に思うようになって、ずっと一人で不安も不自由さも抱え込んでいったんです。

 小学校の頃は、見えなくなったら死ねばよいと思ってたんですよ。一生懸命生きれば、短くとも充実した一生になると思う方が、見えなくなった後を想像するよりよかった。でも否定的ではなくて、好きだった物語の主人公のように雄々しくそれまでを生きる(笑い)という気持ちでしたね。埼玉県の秩父を小学校6年のときに離れて、叔母と小田原で暮らし始めたのも、「失明するまでにいっぱい経験するんだ」という思いから両親に繰り返し頼んだんです。でも、中学になると「死ねばよい」じゃ済まないでしょう。でも展望は何も見えない。言ってもわかってもらえないだろうという気持ちもあり、悩みを誰にも言いませんでしたね。

 小田原に移ってからが苦しかった。いじめの対象になったんです。黴菌がつくと言ってそばに寄らない、歩くと足を出されて転ばされる…。でも、自分で決めて家を離れたから、両親には泣きつけない。特にひどかったのは半年ほどでしたけど、忘れられないくらいつらかったです。

 そこで踏んばれたのは、やっぱり両親のおかげでした。私の両親は盲学校に行くように言われた時、精いっぱい学校と交渉してくれたり、私が止まりたいと思った時に守り、私が出たいと思った時に送り出してくれました。様々な情景を繰り返し思い出しましたよね。

 叔母が結婚することになったため、寄宿舎のある箱根の白百合学園を受験して、中学2年で転校したんですが、中学3年くらいになると、視野も視力も大分悪くなって、雨で少し暗くなるとテストの用紙そのものが見えなくなるんです。見えなくなったらどう生きたらよいだろうかという不安がとても強くなってきた頃でした。

 白百合学園は高校進学にも厳しい試験があり、受験の時に雨が降ったらと思うと、とても不安でした。その頃、お母さんをがんで看取った1つ年下の後輩がいて、私は生まれて初めて、彼女に自分の苦しみや不安を話したんです。クリスチャンの彼女は、私の受験までの半年間、毎日礼拝堂で合格を祈り続けてくれたそうです。彼女は何も言いませんでしたが、周りから聞いて、私は涙が止まりませんでした。見えなくなっても、彼女みたいに人を思いやる心を持ちたいと思ったのが私にとって一筋の光になりましたね。

 夫とは大学で出会いました。上田にある長野大学の社会福祉学科に進み、他の障害を持つ学生と「障害者の要求を実現する会」をつくったとき、支援者として加わってくれたんです。交際するうちに、無条件で私を好きでいてくれるというのが伝わってきて…。でも、目はどんどん悪くなって、就職を探してもありませんでした。

 あるとき、彼がしょんぼりしていたので聞くと、私が就職で悩んでいるのを見る中で、夫は結婚を考え始め、父親に「目の見えない娘に結婚を申し込みたいと思うんだけど」と話したそうです。すると父親は「苦労して一人息子のお前を育ててきたおっかさんを、お前はまだ苦しめるだか」と言って取り合ってくれなかったと言うんですね。その時は、彼が、私を「目の見えない娘」としか表現してくれなかったことにショックを受け、そんなことで立っている場所が崩れてしまう自分も嫌でした。何とか仕事を見つけて自立した上でないと、先のことは考えられないと思いました。

 そんな頃に名古屋ライトハウスに見学に行き、岩山光男先生(現理事長)と出会ったんです。点字図書館を始められた経緯などを伺いましたが、先生のお話はユーモアとエネルギーに溢れていて、思わず「何年かかってもここに来たいです。何を勉強したらいいか教えてください」って言ったんです(笑い)。年度末に欠員ができて、電話をもらった時には本当にうれしかったですよ。

 夫とは一旦別れ、就職して半年ぐらいして交際が復活していました。夫も仕事を持って自信がつき、私も自分を持てるようになって、それで結婚を決め、彼の両親に会ったんです。広沢の父は、「そんなに愛していただか。わかった」という一言で受け入れてくれました。でも、古い土地柄なので、私の目のことを伏せたまま結婚の準備が進んでいくようでした。結婚式の最初の祝辞に立った岩山先生が、「私は二人を信じていますが、1つだけ心配なことがあります。それは里枝子の目が見えないことです。ヘレン・ケラーは『見えないことは不自由だが、不幸ではない』と申しました。里枝子が幸せになれるかは、皆さんの協力に掛かっています」と涙ながらに話して下さった。そのお陰で、結婚式が応援する会みたいになりましたね。今まで力になって下さった方が全部集まったところで、また次の段階に押し出していただいたんです。

 その後、子供が生まれてから、今ぐらい見えなくなったんです。でも、生み出すために見えなくなるというのは願うところでした。それと名古屋のライトハウスで見えない人たちと出会っていましたから、私も努力すればやれるんだろうと思えていました。ただ、実際の子育てになるとまた違う(笑い)。見えなくなったのと初めての子育て、お願いして両親と別にした慣れない家事…。

 大きな転換になったのは盲導犬を持ったこと。子供が生後10カ月のとき、当時、和歌山県田辺市にあった日本ライトハウスの行動訓練所に1カ月入ったんです。子供と離れたことで自分を客観的にも見れ、帰ってきたら子供を連れて自然の中も人の中も、どんどん出ていけるようになりました。

 その訓練のとき、訓練士さんの奥さんから、子供への絵本の読み聞かせの大切さを教えてもらったのも大きかった。帰ってから子どもを膝に抱いて点訳絵本を読んで聞かせると、子供は次々読みたがるんですよ。そのうちに子供の口からも豊かに言葉があふれるようになって、私は、その言葉を点字で書き留めていったんです。それを大学時代からの親友が手書きの文集「あきとまさきの お話のアルバム」にしてくれて、地域のボランティアの方たちの協力も得て第4集まで作ったんです。お世話になった人たちに、そして子供の通う幼稚園のお母さんたちにも見てもらいました。文集を通して、私たち家族のことを内側から見てもらえたんだと思うんですよ。自分から差し出した手になったというか。最終的には3000冊ぐらい作りましたね。

 この文集を見た信越放送のディレクターから、「一緒に心の主食になる番組を作りませんか」と声をかけていただいたんです。それが1991年から続くラジオ番組「里枝子の窓」です。メインはトークで、地域で地道な活動をしている方とか、自立生活をしている障害者の方たちのお話を伺っています。番組は、障害者も非障害者も両方が交われる窓口でありたいということと、長野県の東信地区に根を下ろして発信することをスタンスにしています。登場される方の生きるパワーに触れられるような話が聞けたらと思うんですよ。いろんな分野の方のお話が聞け、時代の動きにも触れられて、幸せな仕事をしていると思いますね。

 それ以外にも色々やっていて、「上小地域障害者自立支援センター」では1999年から毎週火曜日にピアカウンセラーをしています。ピア・カウンセリングは障害者同士、お互いを信じて気持ちを聴きあうものです。アドバイスや指導は一切しません。思いっきり自分らしく生きていいし、私たち自身が、自分で人生を切り開いて行けるんだってことに繰り返し気づけるように、力づけ合うものなんです。人の気持ちを聴くことは本当に奥が深いですが、学ばせていただくことばかりですね。

 もう1つは学校に行って、体験談とか民話や童話を語る活動を続けていて、年間30回くらい行っています。東京子供図書館に2年間通い、子供のための語りを勉強しました。うちの子供には15年語っていて、それをぜひ続けたかったんです。

 体験談の中では、諦めるのは自分への差別だよって語り掛けています。振り返ると、私は視覚障害について余りにも知らずに、差別観を持っていて、それで自分を苦しめていた。自分を肯定した時に自分を大切にできると思うんですよ。それに健常の子たちも同じような潜在的な不安を抱えていることにも気付いたんですね。障害があっても、こうやって生きられるよっていうのを見ると、安心するんじゃないかなあ。

 今アメリカで、普通校に通う障害を持つ子供たちのために、障害を持つ大人たちが相談に乗る「ユース サーバイス」が始まっているんですよ。それは、将来にイメージが持てるってこと。普通校で学ぶのは、将来地域に生きていく上で役に立つことがたくさんあり、また普通校に障害を持った子がいるプラス面もうんとあります。でも障害を持った子供は自分の将来が見えてこなくて、自分だけ取り残されてしまうような不安感もあります。そこを障害を持った大人たちがサポートしていくことの必要性を体験から痛感しています。

 自分の障害ですか?… 人生をよじ登っていく足掛かりみたいなものじゃないかしら。私の深いところには信仰があると思います。高校受験の時、後輩が祈ってくれたように、大きな意味で与えられた人生であって、導かれているという安心感が心にありますよね。だから今与えられたことを一生懸命やって、今出会った人を大切にしていけば、私のするべきことが与えられるって信じています。安心感って周囲の人々のおかげで与えられてきたものかも知れませんね。

[ひとこと]
小さいころ読んだ物語に登場する、分かれ道の岩に上から未来を指し示すおばあさんのように、様々な分かれ道で導く人たちに恵まれたという。それは苦しい日々でも生き方の上で妥協せず、自分と真正面からぶつかっていった結果のように思えた。(眞野哲夫)