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里枝子のエッセイ

2016年の5大ニュースと越後瞽女唄

「里枝子の窓」 2016年12月31日放送内容

 こんにちは。広沢里枝子です。私の足元には、今日も、柔らかな毛並みの盲導犬、ジャスミンが、のんびりと寝そべっています。

 さて、12月の放送は、1年のまとめということで、私が1人でお話します。

 2016年を振り返りますと、今年ほど障害に関わるニュースが報道された年は、近年なかった気がします。そこで最初に私が感じている障害に関わる5大ニュースを挙げてみます。

 まず、良いニュースでは、1番華やかに報道されたのが、リオパラリンピックの開催でしたね。日本のパラリンピック選手は、金メダルはとれませんでしたけど、過去最高の24個のメダルを獲得して、目覚ましく活躍しました。

 私も、県内あちこちの学校などへお話に行ったおりに、子供達に「パラリンピックを見ましたか?ブラインドサッカーを知っていますか?」と問いかけましたところ、「見た見た!知ってる知ってる!」と、元気に応えてくれました。

 障害のある人々の力や、可能性、魅力を本当に輝かせたパラリンピックでした。

 二つ目の良いニュースは、もちろん、今年の4月から「障害者差別解消法」が施行されたことです。この法律によって、行政機関や、民間事業者が、障害者に対して不当な差別的取り扱いをすることが禁じられました。また、行政機関は、障害者の求めに応じて、合理的配慮をすることが義務づけられました。

この法律については、「里枝子の窓」にも、障害者の人権問題に取り組んでおられる池田純さんをお迎えして、わかりやすくお話していただきました。このときの放送には、今年では1番たくさんのご感想をいただいたんです。「障害は、社会が作りだしてきたものだから、障害をなくしていく責任は社会にある。この基本的な考え方が、今や、世界でも日本でもスタンダードなんだとわかって、新しい時代がきた!と感動した」というご感想もありました。こうした「障害の社会モデル」の考え方や、障害者も他の人々と平等の権利があるんだということは、共通理解になるように、これからも繰り返し話題にしていくことが大切だと感じました。

 そして、三つ目も良いニュースです。

 長野県で、私が、今年1番変わったなあと感じたのは、行政関係で開く講演会などで、手話通訳や、要約筆記などの聴覚障害者のための情報提供が、おこなわれるようになったことです。ときには7、8人も通訳者の方がみえていました。

 講演するこちらも、先に講演内容を文書で提出したり、資料を送ったり、相当の準備をして臨むことが増えました。

 これは、長野県に「手話言語条例」ができた成果でしょうね。県条例の威力を実感しました。なので、次は、長野県にも、更に幅広い問題に対処できるような、障害者差別をなくす条例ができることを期待しています。

 そして、四つ目は、今年、最悪だったニュース。相模原障害者施設殺傷事件です。

 7月に神奈川県相模原市の障碍者施設「つくい山百合園」で、この施設の元職員だった男が、入所者19人を殺害する前代未聞の恐ろしい事件をおこしました。社会の中に今も根深く残る差別意識が明るみに出て、本当に考えさせられる事件でした。

 それでも、精神障害者の当事者会、ポプラの会から、大堀尚美さんが「里枝子の窓」にみえたときに話しておられましたよね。この事件によって、差別をなくすための長年に渡る努力を後戻りさせて、差別を助長したり、いっそう保護隔離していく方向にしては、絶対にいけません。ますますみんなで手を取り合って、共に生きる社会にしていくことで、否定的な価値観を跳ね返していきたいですね。

 そして五つ目も、たいへんショックを受けた悲しいニュースでした。

 8月、10月と、視覚障害者が、ホームから転落して、電車にはねられて死亡する事故が続きました。「里枝子の窓」でも、二度とこうした事故が起きないでほしいと願って、いくつかの提案をさせていただきました。

 こうした転落事故は、これまでにも多数起きていたわけですが、連続して起きたということで、今年は国交省や、各鉄道会社も、対策に乗りだしました。長野県でも、今月、県の主催で、鉄道事業者と視覚障害者関係団体との情報交換会が、初めて開かれました。

 痛ましい事故が続いた今年でしたけれど、日本の駅を安全にする、きっかけの年にしたいものです。

 以上、私が感じた「2016年の障害にかかわる5大ニュース」を始めにお話ししました。

 これからも「里枝子の窓」では、皆様にご協力いただきながら、発信を続けていきます。ぜひ、情報や、ご意見、ご感想ををどしどしお寄せください。

 「こんなことに取り組んでいるよ。こんなことがあったよ」という、身近なお話も大歓迎です。「里枝子の窓」のホームページからメールするか、お葉書をお送りください。

 さて、今日、私は、初めてスタジオに三味線を持って参りました。紅木という、固い木でできた中竿三味線です。

 私は、去年の12月の放送の中で、初めて越後瞽女唄を唄わせていただいたんですが、三味線を使わない「夢和讃」という唄でした。今回は、いよいよ三味線伴奏で唄ってみます。

 瞽女唄というのは、瞽女さんたちが暮らしのために唄った唄です。瞽女さんというのは、家々を巡り歩いて三味線伴奏で唄った盲目の女旅芸人のことです。関東甲信越など、日本各地に見られた瞽女さんの姿は、今は失われてしまいました。

 ですが、私は、最後の瞽女と呼ばれた小林ハルさんが102才のときに一度だけお会いできました。ハルさんの瞽女唄を間近で聞かせていただいたときの衝撃は、雷に打たれたようで、忘れがたい経験でした。ただただ畏怖の念に打たれて聞いた瞽女唄でしたから、まさか自分が演奏するようになるなんて、思いもよりませんでした。

 ところが、一昨年の春、小林ハルさんの遺された2人のお弟子さんの一人、萱森直子先生の演奏を聞かせていただいて、私は、ぜひ、この方から、瞽女唄を習いたいと思いました。萱森先生は、小林ハルさんや、杉本しずさんから直接瞽女唄を習って、その伝承活動に献身しておられる方です。

 それで、私、盲導犬のジャスミンと一緒に、新潟の内野というところにある萱森先生のお宅に通って、教えていただいているんです。

 では、越後瞽女が、門付唄として、よく唄ったという唄の1つを唄ってみます。

 瞽女さんたちは、目的地に着くと、まず、村の庄屋さんや、旧家に赴いて、そこに荷物をおろしました。それから、三味線と米袋を持って、3、4人が一組になって、家々の門前で、短い唄を披露しながら村を一回りしました。

 時には100軒近く回ることもあったそうです。それを越後瞽女さんたちは「騒ぐ」とか、「騒いで回る」と呼んでいたそうです。「今年も瞽女が来ましたよ。夜には、宿で興業が催されるので来てください」と村中に伝えて歩いたわけですね。

 では、門付唄のひとつ、「庄内節」です。

◇ 庄内節

めでた めでたが
三つ重なりて
鷹と鶴亀
舞い踊る

めでた めでたや
この屋の館
家に舞い込む
福の神

松の根もとに
くるみを植えて
主のくるみを
待ちわびる

 いかがでしたでしょうか?

 特に門付唄は、玄関先から家の奥にいる人にまで聞こえるように、遠くまで響く声で唄ったそうです。

 戦前までは、長野県にも、松代や飯田に瞽女さんの組織があったそうですね。戦後も、越後瞽女の方々が、南信のほうや、上田、小諸、佐久あたりまで来ていた記録が残っています。

 私は、この頃、講演の最後に1曲というように、少しずつ瞽女唄を唄っているんですが、幼い頃に瞽女さんたちを村人たちと待ち受けて唄を聞いたことがあるといった思い出を懐かしそうに話してくださる方が、時々あります。最近も、ある方から、「瞽女さんたちが来た時には、大きな鍋に大根の味噌煮を山と作って、みんなで食べながら聞いた」という話をお聞きしました。信州は、瞽女さんと縁の深い地域なのですね。

 もしも「瞽女さんの唄を聞いたよ。家にも来てたよ」ということを憶えている方がいらっしゃいましたら、ぜひ、私にも教えてくださいね。

 ところで、今は、三味線を弾く方って珍しいので、「どうして三味線を弾くようになったんですか?」と、聞かれることが時々あります。

 私は、小学校の4年生から6年生の途中まで、ほぼ毎日、長唄三味線と長唄のお稽古に通わせてもらっていました。その頃私は、埼玉県の秩父郡皆野町という所に住んでいましたが、その頃から私は、将来、失明することがわかっていました。

 それで母は、何か手に職をつけて、自立できるようにしてやりたいと真剣に考えたんですね。そのときに秩父市に、長唄三味線と長唄の名手がおられることを聞きまして、そのお師匠さんに教えていただくことになりました。

 私が小学校から帰ってきますと、毎日母が、玄関に荷物をそろえて待っていました。それから二人で、一生懸命に田舎道を歩いて駅に行き、そこから電車に乗り、電車を降りると、また歩いて、お師匠さんが教えておられる芸者置屋に通いました。

 私は子供でしたから、褒めてもらえればうれしかったですし、芸者さんたちは、すごく褒め上手でしたから、夢中になってやっていました。

 ですが、おさらい会の前の稽古は、非常に厳しいものでした。私は、三味線の棹にまだ手の届かないような小さな子供でしたけれど、大人たちに混じってお稽古をして、ちょっとでもずれると、お師匠さんが、ぴしゃっと手を打ち鳴らして、「そこ合ってない!やりなおし!」って、おっしゃるんですね。

 子供なので、足はしびれてくるし、うまくできないしで、涙をぽろぽろこぼすんですが、手は三味線で塞がっていますし、できるまでは許してもらえないので、ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしながらお稽古したことを憶えています。でも、今になって、何十年ぶりかで三味線を弾いていますと、その頃のことを本当に懐かしく思い出します。

 私の稽古は、瞽女さんたちの厳しい修業とは、くらべものになりませんが、ただ、この芸の路で生きていかなくては、他には生きる道はないんだ!という思いつめた気持ちをもちながら、母も稽古に通ってくれましたし、私もそうでした。その意味では、どこかしら瞽女さんたちの苦労を肌身で知っているところもあるような気がしています。

 では、最後にもう1曲演奏します。今度は、ちょっと軽い陽気な曲です。

 瞽女唄には、祭文松坂や、瞽女松坂のように、瞽女唄独自のものもありますが、村人たちに喜んでもらうための芸ですから、民謡、小唄、端唄、どどいつ、和讃と、いろいろなものを取り入れて、それを瞽女さん風に新しい歌にして歌うということもよくあったそうです。レパートリーが、とっても広かったんです。

 この高田瞽女の「佐渡おけさ」も、民謡の佐渡おけさとは、だいぶ違います。

 今年も今日が最後の日です。「お疲れ様でした!来る年も、良いことがありますように!」そんな気持ちをこめて、今年最後に送る唄です。

 萱森直子先生が、杉本しずさんから受け継いだ高田瞽女の「佐渡おけさ」をお聞きください。

◇ 佐渡おけさ(高田のもの)

あいや〜 きた〜(いや〜)それ 枕がいらぬよ
あ きたほいきたほいと
たがいちがいの やありゃ(そおりゃ) お手枕
あらしばたけのさやまめは ひとさや走ればみな走る
わたしゃあなたについて走る ありゃよいよいと

竹と 名がつきゃ 寒竹からだけ 紫竹の篠だけ
野竹山竹
畑のくろの
めざさなんぞの 小竹までかわいいよ あ きたほいきたほいと
殿さ らう竹 そおりゃ なおかわい
あずっといってずっと帰りゃなんのこたない
い続けうつから(深追いするから)丸裸 ありゃよいよいと

わしに 会いたくば 上州前橋  敷島川原の
小砂利まじりの
あら砂もってきて
わたしがお寝間の
三尺小窓の
小障子のあいだから
姿かくして ぱらぱらと 撒きなよ  あ きたほいきたほいと
小雨ふるかと やありゃ 出て会うと