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里枝子のエッセイ

三味線弾きの少女

2013年7月 自分史を編む No.5

○はじめに

 今年の4月18日から、私は月に2回ずつ、長唄の三味線の師匠、山口由美子先生のお宅へ通って、もう一度三味線を習い始めている。大人になってからは初めてのお稽古なので、先生からは「胴の位置は、もう少し膝の右側に。竿はもう少し高く上げて。撥はもう少し下を持って。そうそう、その位置を忘れずに」と、一から教えていただいているところだ。
 それでも三味線の胴を膝に載せ、細い滑らかな竿を握ると、気持ちが落ち着く。先生の弾く旋律を聞いていると、はるか昔に習い覚えたまま、その後は聞くことさえしなかった長唄三味線の旋律が、いくつもの扉をさあっと開くようにして体の奥から蘇ってくる。
 今は先生の手の動きも見えないし、楽譜も読めないにもかかわらず、思い出すという作業さえ飛び越えて、両手が勝手に動き出す感覚は、自分でも不思議だ。ただ手が勝手に動くだけの自動演奏なので、楽譜と違う指使いをしているところなどを先生が教えてくださっても、新しい手は、なかなか覚えられず、一人で弾いていると、いつの間にか別の曲になっていたりする。上達への道は、かえって遠そうだ。
 だが、気持ちよく弾けるところでは「ああ、私はこの旋律を知っている…。 この躍動感を知っている…。 この唄のせつなさは子供の頃にも何となく知っていた…。」と感じる。45年近く前、子供だった私に三味線を教えてくださったお師匠さんのこと。
 当時の家族のこと。その頃の情景を、じわじわと思い出す。三味線を弾いていると、新しいことを詰め込むのとは別の、奥に抱いてきたものを解き放つような穏やかな解放感を味わう。この感じを書きとめておきたいのだが、さて、書けるだろうか…。

○邦楽愛好一家

 母が、私の自立の手段として長唄の三味線を選んだ背景には、母の実家が、邦楽を嗜む家族だったことが影響していたと思う。
 母方の祖父は、自営業の傍ら尺八を教えた人で、高齢になってからも毎朝、尺八を吹いた。和服姿の祖父が縁側に座って水撒きの済んだ清々しい中庭に向かい、愛用の尺八を構えて朗々と吹いていた姿は、今も目に焼きついている。尺八の音が響きわたる間は、家中に厳粛な空気が流れて、普段はそこらを駆け回っていた私達孫も、鎮まって耳をすました。
 祖父の親友が、尺八の琴古流の家元で、尺八の楽譜を考案した人であり、祖父もその楽譜の考案に協力したという話を聞いている。そんな祖父の方針で、母たち兄弟姉妹は、日本の古典芸能から、それぞれに好きなものを習わせてもらったらしい。
 母の妹である叔母は、幼い頃から坂東流の日本舞踊を習っていた。私も両親に連れられて叔母の舞台を見に行ったことがある。きりりとした男姿で舞い踊る若い叔母は、眩しいほど輝いて見えた。叔母は、勤めが休みの日には、座敷で様々な邦楽のレコードをかけながら、お弟子さんたちに踊りを教えていた。
 母も、片耳が聞こえなかったにもかかわらず、女学校を卒業してから、琴を習い、生田流筝曲の名取になった。人に教えることはなかったが、お正月などには座敷に琴を広げて「春の海」などをしっとりと弾くことがあった。そんなときの母は、普段の忙しい母とは別人のような優雅な雰囲気で、私は、琴を弾く母がとても好きだった。
 そして、東京に住んでいた母の兄である叔父は、邦楽にもクラッシック音楽にも通じていて、若い頃は、音楽教師になりたかったという人だ。叔父は、歌舞伎座で良い演目がかかると、貴重なチケットを手に入れて、母と私達姉弟を招待してくれた。特に三味線を習っていた頃に見せてもらった歌舞伎の「勧進帳」の絢爛豪華な舞台は印象にある。
 弁慶が、読んでいる巻物が偽物であることを富樫に見とがめられないように、ひらりひらりと鮮やかに身をかわしながら勧進帳の文言を高らかに読みあげた場面。弁慶が、私の席のすぐ横の花道を踏みしめながら、飛び六方でダンッダンッダンッと引きあげて行った場面には驚嘆した。私は、思わず爪先立って弁慶が引きあげていったばかりの花道の床に触り、今見たものは本物だったのだろうかと確かめたほどだった。
 歌舞伎座を出たとき、私は興奮で顔を輝かせていたのだろう。叔父は、そんな私ににこにこ笑いかけながら「この舞台は、里枝子ちゃんにどうしても見せてあげたかったんだよ」と言った。叔父は、いずれ見えなくなる私に一流のものを見せておいてやりたいと、気にかけてくれていたのだと思う。
 邦楽を愛好して生きた肉親の人々の人生が、自分のどこかに沁みこんでいることを感謝の気持ちで思い返すこの頃である。

○三味線を始める

 私が子供時代に三味線を習ったのは、埼玉県の秩父郡皆野町に住んでいた小学校4年生と5年生の2年間だった。振り返れば、ほんの2年間なのだが、平日はほぼ毎日、雨が降ろうと雪が降ろうと、お稽古に通ったので、秩父にいた頃は、三味線に明け暮れていたような印象がある。
 4年生に進級する前の時期だったと思うが、母が私に三味線を習ってみないかと言った。母は、「あなたが将来、目が見えなくなることを考えると、何か楽器を習っておく必要があると思う。長唄三味線なら、一生かけて深めていけるから、これを今から始めるのがよいと思う。秩父市に評判のいいお師匠さんがいらっしゃることがわかったので、習う気持ちがあるなら連れて行く」という意味のことを言った。私は、母の弾くお琴の音色が好きだったので、母からお琴を習うほうがいいと言った。けれども母が、「自分が琴を教えたのでは、甘くなってしまってものにはならない。あなたの場合は、一つの楽器を徹底して身につけて、それで生きていかなければならないので三味線のほうがいい」と言うので、母の考えを受け入れることにした。両親は、子供であっても、自分で決めさせ、決めたことには責任を持たせるという主義だったので、9歳の私も、三味線を習うことは、最終的には自分が決めたことだという意識を持つようになった。
 私が、最初に母に連れられて、三味線のお稽古に行ったのは、1967年の4月だったろうと思う。
 私たちのお稽古通いは、最初からすべて徒歩と電車だった。皆野町の蓑山の麓にあった家から皆野駅まで20分ほどかけて歩き、秩父鉄道に乗って秩父駅で降り、更に2、30分歩いてお稽古場へ向かった。
 静かな路地を入った処に古風な格子戸のある家があり、その格子戸をくぐり、玄関を開け、薄暗い廊下を進むと、炬燵を置いた六畳ぐらいの和室があった。そこがお弟子さんたちが他の人がお稽古をしている間、待っている部屋で、最初にお師匠さんに会った部屋だった。その続きに広い和室があって、そこが三味線のお稽古の部屋。その向こうに、踊りのお稽古をする板敷の部屋があった。
 お師匠さんは、当時60代後半だったろうか。背筋をまっすぐに伸ばして、髪をきちんと結った和服の似合うお婆さんで、見るからに威厳があった。
 お稽古の最初に習ったのは、ご挨拶。まず、きちんと正座して背筋を伸ばし、相手の顔を見る。それから両手の指先を伸ばして三角形を作るようにして畳につける。その三角形の間に額をつけるように頭を下げて明るい声で「お願いいたします」と挨拶をする。お師匠さんは、私がきれいな姿勢で挨拶ができるまで、「お願いいたします」と繰り返し一緒にやってみせて、できると大変褒めてくださった。
 それから、きれいな姿勢ですっと立ち上がり、床の間から1丁の三味線を持ってきて、音を合わせて渡してくださった。
 お師匠さんは、私の傍にきて、指かけや、膝ゴムなどの小物の使い方、三味線の構え方、撥の持ち方などを手をとって教えてくださった。
 お師匠さんの肩ごしに母の姿を探すと、母がお稽古の部屋の入口の敷居の処に座って、カセットテープレコーダーを膝元に置いて録音をとっていた。カセットテープ式のレコーダーは、当時はまだ珍しく、高価だったそうだが、私のお稽古のために両親が買ってくれたものだった。母は、聞こえるほうの耳をこちらに向けて、文字通り耳を傾けながら、じっとお稽古のようすを見守っていた。
 私が撥の持ち方を習っていたときには、母が「おそれいります。鉛筆でちょっと持つ位置に印をしてもよろしいでしょうか」と言って出てきて、私が持っていた木撥の親指を当てる位置に鉛筆で印をつけてから、また元の敷居の処へ戻って行った。
 この日、最初に習った曲は、「金毘羅舟々」だった。
 「金毘羅舟々、おいてに帆かけて、しゅらしゅしゅしゅ…。」  私は、こちこちに緊張していたし、三味線も撥も重たくて、手が痛くなってきた。それに私にはお師匠さんの左手の上がり下がりがだいたい見えるだけで、正確な位置や指使いは見えなかった。それでも、お師匠さんの弾く音を集中して聞きながら言われたとおりに両手を動かすと、意外に弾けた。
 「金毘羅大権化、一度回れば、金毘羅舟々・・」
 この曲は、終わると、また始まる調子のいい曲だったので、私は段々おもしろくなり、お師匠さんも、たいへん褒めてくださった。
 ところが、これで終わりかと思ったら、次は唄のお稽古だった。お師匠さんは、三味線を自分の右側にまっすぐに置くように言い、今度は、二人の間の小さな木製の台の上に歌の譜面を広げた。譜面は、筆書きのような難しい字の縦書きで、歌詞が書いてあった。3本の糸を表す3本線の上には、たくさんの数字が並び、私には見にくい小さな文字で、チンとか、ルンとか書いてあった。
 その日に習った唄は「お月さま」だった。譜面を見たときには、ぎょっとしたし、慣れない正座で足が痛んできたけれども、私は、めったに不平を口に出さない子供だった。
 「お月さまいくつ、十三、七つ、まだ歳ゃ若いな、いつも歳を取らないで、三日月になったり、まん丸になったり…。」
 と、唄の意味はよくわからないながら、一生懸命お師匠さんのまねをして唄って、また褒めていただいた。そして帰りには、お師匠さんがご褒美に、大粒の蜂蜜飴をひと掴みくださった。
 褒めていただいて有頂天になった私は、三味線や撥が重かったことも、足がしびれて痛かったことも忘れて「あたし、しゃみせんやるよ!」と宣言しながら帰ったのではなかろうか。その夜から毎晩、母によるつきっきりのおさらいが続くことになるのも知らずに。

○芸者置屋のお稽古場

 母の話によると、当時は、田舎でもまだ花柳界が盛んだったそうだ。父の会社でも、お得意さんやお偉いさんを招いて宴会を開くときは、芸者衆を大勢上げて賑やかに盛り上げることが多かった。特に秩父地方では、主産業がセメント工業やコンクリート工業だったため、父たちの会社は、地域の花柳界では上得意のひとつだったらしい。
 そんなわけで、母は父に、どこかによい三味線のお師匠さんがいないか、芸者衆に聞いてほしいと頼み、父が芸者衆に聞いて母にお師匠さんの評判を伝えたという経緯があったそうだ。
 お師匠さんのお稽古場は、芸者置屋の一角にあった。そこは秩父市本町だったと思われる。インターネットで調べたところによると、本町は荒川の河岸段丘の二段目の町で、かつては機屋や染物屋や花街が集中していたそうだ。1960年代まで、そこにいくつかの芸者置屋があったという記録を見つけた。
 お師匠さん自身、もとは売れっ子の芸者さんで、飛びぬけて芸達者であったため、置屋のおかみさんの養女になり、三味線も歌も踊りも教えられる師匠として、大勢の弟子を持つようになったのだそうだ。
 芸者置屋などというと、一般の女性たちは、何か不潔なイメージや、色っぽいような派手なイメージをもつようだが、そんな印象は全くなかった。
 お弟子さんの中には、お師匠さんを「姉さん、姉さん」と呼んで、親戚のように親しくしている女性たちがいたので、あの人たちが芸者さんなんだろうなとわかった。だが、芸者さんたちにとっては、そこが生活の場だったためか、たいていは地味な普段着で、私から見ると普通のおばさんだった。
 お稽古に行くと、よく一緒になる芸者さんに、太ったおばさんと痩せたおばさんがいた。二人とも朗らかで、「お行儀よく待ってるねえ!」「上手上手!」と、いつも賑やかに褒めてくださった。太ったおばさんは、響きのあるよい声で、舞台では、唄方の中心だった。痩せたおばさんは、三味線が上手で、三味線方の中心だった。
 一度だけ、この二人が、「お座敷の前なので、ごめんなさいね」と言いながら、髪にたくさんカーラーを巻きつけて、長じゅばんの上にカーデガンか何か羽織ったような格好で現れて、お師匠さんから厳しく叱られて帰されたことがあった。そのときに「ああ、あのおばさんたちは、本当に芸者さんだったんだなあ」と、思ったことを覚えている。おそらく置屋の中のお稽古場以外の場所では、そんな格好も珍しくなかったのだろうが、お稽古場については、お師匠さんが厳格に仕切っていたにちがいない。
 お稽古場に出入りしていた人の中には、様々な一般のお弟子さんもいた。三味線を習っていた人には、どこかの社長さんという恰幅のいいおじいさん、ギタリストだというお兄さん、芙蓉さんという名の真面目そうな会社員のお姉さんがいたことを覚えている。母は、三味線を習っていた中学生のお姉さんが、私と仲良くしてくれたと話していたが、そのお姉さんのことは、なぜか全く思い出せない。
 日本舞踊を習っていた中には、小学生の女の子たちがいた。近所の子たちだったのか、私のように親につきそってもらっている子はなかった。その子たちは、順番がくるまで外で遊んでいて、呼ばれるとお稽古場へ上がってきた。そして、短い時間習って、また遊びに戻って行った。
 ゆかた会や、おさらい会が近づくと、色鮮やかな着物を可愛く着せてもらって、踊りのお稽古にやってくる子もいた。赤や桜色の渦巻き模様の紙傘をくるくる回したり。藤色の花房の造花がいっぱいついた枝を肩に載せてポーズを決めたり。キラキラ光る扇をひらりひらりと翳して踊ったり。いかにも華やかだったので、私は心から羨ましく思いながら、その子たちの姿に見とれた。私にもできないだろうかと、見る度に思った。でも、日本舞踊は、お師匠さんの全身の動きをよく見て覚えるものだということが、お稽古のようすを見ていればわかる。首の傾け方や、目線の向け方。腰の落とし方や、指先の動き、足運び。微細な動きまで、お師匠さんから注意を受けながら習っているのを見ていると、幼稚園のお遊戯さえ、みんなと同じにできなかった私には、到底無理だとわかった。
 それに私が三味線を習うのは、遊びでも花嫁修業でもない。私は、ちゃんと三味線のプロになって、お師匠さんのように教えられる人にならなきゃいけないんだと、子供ながら自分に言いきかせて我慢した気がする。
3つ年下の弟は、時々お稽古について来て、待ちあいの部屋でトランプなどして、おばさんやお姉さんたちに遊んでもらっていた。弟が楽しそうにしていると私もほっとしたが、自分は母の言いつけに従って、できるだけ他の人のお稽古を聞くようにしていた。
 今も私は、自分が習わなかった曲を聞いて「ああ、この旋律は聞き覚えがある…。」と懐かしく思い出すことがある。お稽古場の続きの部屋で毎日長いこと待つうちに、耳の穴から、毛穴から、体に沁みこんだ旋律があったのだろう。

○舞台デビュー

 お師匠さんは、毎年夏にはゆかた会、冬にはおさらい会を開いた。会場は、秩父市内の「末広旅館」という老舗旅館の舞台のある大広間だった。
 最初のゆかた会のとき、畳敷きの楽屋の隅で、私は母から大人たちと揃いの紺系の地味なゆかたを着つけてもらっていた。その楽屋の中を女の子たちが、色鮮やかな着物に帯を胸高に締め、髪にはきれいな簪を挿して、はしゃぎながら走り回っていた。
 私は、その子たちの姿を羨ましく眺めるうちに、急に涙がこみあげてきた。母が私に化粧をすると言って、私の顔をじっと見つめるので困ってしまい、泣かないようにこらえながら化粧してもらったことを思いだす。
 その最初のゆかた会で、私は「さくらさくら」と「黒田節」を弾き、「お月さま」と「虫の声」と「兎と亀」を唄った。それらは、長唄に入る前に子供が習う手習い曲や民謡だった。
 初めの頃、お師匠さんは「どんな曲を弾いたら、お父さんに喜んでいただけるでしょうねえ?」と言いながら次の曲を決めていた。曲を選ぶのに、なんで父の好みが関係するのだろうかと私は不思議に思っていた。その頃までお師匠さんは、何不自由ないお嬢さんがわざわざ三味線を習う理由は、邦楽好きな父親やお客さんの前で三味線を弾いて喜ばせるためなのだろうと解釈していたようだ。
 けれども、そのうちに私の視力が弱いことがわかり、そのために母が、この道で身を立てさせようと本気になっていることが伝わっていったのだろう。私に対しても、すぐ泣くわりには、やめるとは言わない根性のある子で、ひょっとしたら見込みがあるかもしれないと思ってもらえるようになっていったようだ。
 私は次のおさらい会では、大人たちに混じって、長唄の名曲「松の緑」と「岸の柳」を弾いた。その次のゆかた会では、更に難しい「岸の柳」の替手と「越後獅子」を。その次のおさらい会では、「越後獅子」の替手と、「勧進帳」を滝流しの合方を含めて披露した。
「勧進帳」は、長唄三味線を習う人々がいつか弾きたいと憧れる難曲のひとつである。替手というのは、基本旋律である本手に対し、それと合奏するように作られた別の旋律で、お師匠さんの舞台では、大勢の本手に対して替手は一人で弾き、たいへん目立った。
 ゆかた会や、おさらい会が近づくと、お稽古場に大人たちが大勢集まって来て、発表に備えた厳しい練習が行われた。子供の私も、同じ曲を弾くからには、同じだけの長時間の練習に加わらなければならず、容赦なく叱られた。
 張り詰めた空気の中、合奏は、ちょっと進んだかと思うと、お師匠さんが手をぴしゃっと打ち鳴らす恐ろしい音で止まる。
 「駄目駄目!そこ合ってない!もう1回やり直しますよ!」と、お師匠さんのいらだった声が飛ぶ。
 私が疲れきって、足の痛みも限界で、もう無理もう無理と思っているときに「ほら、替手が遅れた!やりなおし!」などと叱られると、涙はついに堰を切って流れ出した。でも、涙を流しても、やめさせてはもらえないし、両手は演奏で塞がっていた。ぽろぽろ涙を流しながらでも、できるまでやるしかなかった。
 それだけに、ゆかた会やおさらい会の舞台で、難しかった長い楽曲を皆で見事に弾き終えたときの晴れやかな喜びは、特別のものだった。私は、舞台の小さな花にしてもらっていて、お客さんたちや、お弟子さんたちの拍手喝采を全身に浴びた。
 舞台を降りてからも、小さいのによくぞ弾いたと、いろいろな方が私と母を賞賛してくださった。お師匠さんも、お客さんたちに私たちを紹介しながら、「自分も、この小さなお嬢さんがこんなに弾けるようになってうれしい。期待している」と誇らしそうに話してくださっていた。
 今思えば、お師匠さんをはじめ、芸者さんたちは、褒めることのプロだ。みんなで上手に持ちあげてくださっていたのを知らずにいい気持になっていたのだろうと思うと気恥ずかしい。でも、当時の私としては、精一杯がんばった演奏をみんなに聞いてもらい、褒めてもらう瞬間は、舞い上がるようなうれしさだった。
 そんな経験を重ねるうちに、私はいつのまにか、女の子たちのきれいな着物姿や踊りを見て「きれいだなあ」と素直に感心できるようになった。楽しそうに遊んでいるようすを見ても、「子供っぽいなあ」と、くすっと笑えるくらいの心境に変わっていた。

○母の語りからのメモ

 どうして三味線を習わせたかといえば、里枝子は、音楽が好きだったから。でも、私は、本当はピアノをやらせてあげたかった。里枝子は幼稚園の頃、ピアノを習っていて、先生からよく褒められた。家には、オルガンしかなかったけれど、里枝子は、楽譜を見なくてもすらすら弾けたし、上手だった。絶対音感があるのだと思った。
 それで私は、盲学校に見学に行ったときに、ピアノで自立させることができないかって先生に相談した。ところが、楽譜が読めなくなるのでは無理。プロにはなれないと言われてしまった。駄目と言われて、とってもがっかりした。
 でも、とりあえず三味線なら私がお稽古に使っていたものが家にあった。今は、貴女のところにあるお稽古三味線。あれは、私が三味線を習ったときにも使ったもの。三味線は、私自身が馴染みがあって、音を合わせてあげたり、面倒をみてあげられる。昔から、この世界には盲人の人がいるから、この世界ならありえると思った。それでパパに頼んで、評判のいいお師匠さんを探してもらったんだと思う。そしたら、たまたま秩父に杵屋を名乗っている人がいて、すばらしく上手だった。
 あの頃は、盲人の職業っていえば、鍼灸マッサージか、音楽ぐらいしかなくて、他に情報もなかった。三味線は、趣味にしたっていいけれど、人に教えられたらいい。それなら早く始めたほうがいいと思って、里枝子に話したら、やると言った。
 お師匠さんは、中村さんといったと思う。三味線も唄も踊りも、本当に上手だった。紹介されて行ってみたら、まさに芸者置屋さんそのものだったから、ちょっと驚いたけれど、お師匠さんは、髪をきちんと結い上げて、背筋をすっと伸ばした、きりっとした方だった。
 芸者衆には、非常に厳しかった。これなら大丈夫と思った。それと、中学生ぐらいのお嬢さんが三味線のお稽古に来ていて、ちょうどいい連れがあったから、それで続けられた面があったかもしれない。
 里枝子みたいな小さな子は初めてだったそうだけど、引き受けてくださった。最初は大人用の三味線では、手が届かないくらいだったから、まさか、あんな難しい曲が弾けるようになるとは、お師匠さんも思っていなかったでしょう。替手を弾いたり、最後には、勧進帳まで弾いたのだから。けっこう本格的に入りこんでいったから、そのうちにお師匠さんも期待して、気合いを入れて教えてくださるようになった。里枝子が、半べそかいても、これだけは教えなきゃって、一生懸命だった。涙こぼしてやって、帰りにはお小遣いもらって。でも、後は優しいいいお師匠さんで、芸者衆も、みんなして可愛い可愛いと里枝子を可愛がってくれた。あれだけ根を詰めて教えても、里枝子は、嫌だとは一度も言わなか ったから、自分でもやる気でやっていたんだと思う。
 そりゃあ、私は大変だったわ。里枝子が学校から帰ってくるのを待ち構えて出かけて。坊やは、『おなかすいたあ!おなかすいたあ!』って騒ぐし。向こうで食パンなんかもらって、なんとか凌いで。いつもまっ暗くなってから帰って。それからご飯だった。でも必死だったわ。これで身を立てさせなきゃっていう気持ちが、私の中にあったから。
 なのに貴女はいなくなっちゃった。小田原へ行っちゃった。ぱたっとやめちゃった。あれだけ一生懸命やったのに。お師匠さんも期待して育てようとしてたのに。まさか、こんな中途半端で里枝子がやめるとは、お師匠さんだって思っていなかったでしょう。お師匠さんも、残念でたまらなかったと思う。本当は続けてほしかった。続けていたら、今頃は、どうなっていたかしら…。
 でも、今度はゆっくりと楽しみながらやるといいわ。あんなに涙をこぼしこぼし覚えたんだもの、ぜひやってちょうだい。これからはもう、これを仕事にしなきゃなんて思わなくていいんだから。

*「No.34 モラトリアム 夏草 2013年8月1日」から