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里枝子のエッセイ

越後瞽女唄探求の旅 一の段

2015年1月8日

○はじめに

 私はこの頃、時間をみつけては、瞽女唄(ごぜうた)の稽古に励んでいる。「さて、ひと休み」と思うと、自然に三味線や撥にさわりたくなり、さわれば三味線を弾きながら唄いたくなる。
 半年ほどは、長唄と瞽女唄、両方とも手放しがたくて両方やっていたが、両立は難しいことがわかって、長唄はやめさせていただいた。
  瞽女唄の稽古をするときは、たいてい力いっぱいの大声だ。山の上に住んでいるのでいいようなものの、人が聞いたら、びっくりさせてしまいそうだ。木の竿に掴まって安らぐところといい、同じ歌を繰り返し力いっぱい歌うところといい、木の枝に掴まって同じ歌を繰り返す山の鳥みたいなものだなと自分でもおかしい。
 だが、人に話したときに「瞽女唄って何?」「なぜ里枝子さんが瞽女唄?」「なぜ今から?」と不思議そうに問い返されると、私はまだ、ろくな説明もできない。若い人から「今どき、そんなの聞く人いるんですか?」と聞かれたときも、「わからない」としか答えようがなかった。わかっているのは、自分が瞽女唄に魅かれていて、やりたいということ。それだけだ。
 それでも瞽女唄との出会いからたどって思い返していくうちに、なぜ自分で弾き語りしたいほどに魅かれているのか、少しずつ言葉にしていけそうな気がする。遥かな道だけど、今度こそこの道を見失わないように、道しるべとして、これまでのことを書きとどめておくことにした。

○瞽女唄とは

 私の瞽女唄の師匠の萱森直子さんは、ホームページに次のように書いている。

・瞽女唄とは?
 瞽女さんが暮らしのために唄った唄、それが瞽女唄です。
・瞽女とは?
 公的な福祉のない時代、目の見えない女性の生きる道は限られており、生きるために三味線をたずさえ村々を回っていた盲目の女性旅芸人の事で、伝統が途絶えず引き継がれたのは越後だけでした。
・越後瞽女とは?
 刈羽瞽女、三条瞽女、山瞽女、浜瞽女・・・ 瞽女にもたくさんのグループがあり、その中でも「長岡」と「高田」のグループが双璧で、地域の違いにとどまらず、しきたりや組織のあり方など様々な違いが多数ありました。
 「唄」そのものも、驚くほど違います。
 他にも様々な違いがあり、両方を聴き比べるのも楽しみの一つと言えます。演目は多彩… いろいろな要素がまざりあう重層的な「芸」です。唄を唄い、楽しんでいただくことで暮らしの糧を得る… レパートリーが乏しくては商売になりません。演目の多様さ、豊富さは瞽女唄の特徴のひとつです。しんみりとした物語に聞き入り、楽しい唄で笑い、めでたい唄で楽しみ… 瞽女唄は、そのような複合的な「芸」なのです。

○瞽女唄との出会い

 瞽女の存在を私が知ったのは、大学2年生か、3年生の頃だったと思う。ある日、親友の朝子さんが、立派な詩画集を抱えてきて私の下宿の四畳半の畳に広げて見せてくれた。それは斎藤真一さんの作品『絵日記 瞽女を訪ねて』(日本放送出版協会発行)だった。
 朝子さんにその本を読んでもらって、初めて瞽女のことを知った私は、本に顔をこすりつけるようにして、そこに描かれた美しく寂しい越後の風景に目をこらした。すでに私は乏しい視力しかなかったけれど、どこまでも白い雪景色と、その雪の中を連なって歩く小さな人影、山際に映える夕陽の朱赤が目に焼きついた。これが私が自分の眼で見て心を動かした最後の絵になった。
 それから20年以上過ぎたある日、私は下重暁子さんの著書『鋼の女 最後の瞽女・小林ハル』(集英社発行)を音訳CDで聞いた。これだけの人生の記録をさっと聞いただけでわかったつもりになることが申し訳なくて、聞き終えてから、すぐにもう1 度聞き直したことを憶えている。
 私が『鋼の女』の著者、下重暁子さんに出会えたのは、この本を読んでから間もない頃だった。思えば不思議なことで、恵みだったと感じている。
 私の担当しているラジオ番組「里枝子の窓」が、「平成13年日本民間放送連盟賞ラジオ放送活動部門(関東甲信越静岡地区)」に参加し、優秀賞を受賞した。東京での審査会に私も盲導犬ドロシーと共に参加したところ、そのコンクールの審査員の一人が、下重さんだったのだ。下重さんは、「小林ハルさんは102才。お会いするなら今」と、強く勧めてくださった。ローカル局での制作番組のため、新潟取材は前例がなかったのだが、ディレクターの岩崎さんが本社と交渉してくださり、受賞のご褒美として黒川村へ の取材が実現したのである。
 その時のようすは『もらとりあむ 12 冬草 2003年2月1日発行』に書き残してあった。そのままを次に記す。

○小林ハルさんを訪ねて

 小林ハルさんは「最後の瞽女」として知られる人間国宝である。私は昨年の暮れに、ハルさんを訪ねて新潟県の黒川村へ行った。私が担当するラジオ番組「里枝子の窓」の取材のためだ。
 ハルさんのおいたちは『鋼の女』などの作品で、全国に知られている。幼くして失明したハルさんは瞽女の旅をしながら、盲人として女として想像を絶する苦労を重ねてきた。
 そのハルさんは現在102才。黒川村にある視覚障害者のための特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」で暮らしている。
 私がディレクターと盲導犬と共に老人ホームの面会室で待っていると、ハルさんが若い寮母に車椅子を押してもらって入ってきた。ハルさんは今は耳も遠いと聞いていたので、私はハルさんの手をとり、そっと肩を抱きながら、耳元に大声で話しかけた。
 ハルさんの手は柔らかで、体は小さく、声は凛として明るい。
 ハルさんが私に初めに言ったのは「おてえらにおねげえしてえ」という言葉だった。最初はハルさんの新潟弁の意味がわからなかったが、自分には何ひとつ特別なことをしてほしくない、施設で暮らすみんなと平等に接してくれるよう、それだけを頼みたいと言っていたのだ。
 「言い訳はいげねえ」 ハルさんのこの言葉も耳に残っている。ハルさんはおむつをして横になっている毎日であっても、瞽女歌を一節たりとも忘れぬように、常に歌を空で詠んでいるという。人はお酒を飲んだから歌えないとか、年をとったから歌えないとか言い訳をするけれど、瞽女さん、ひとつお願いしますと言われたら、歌わなくてはいけないと、ハルさんは言った。そこで私は「ハルさん、ひとつお願いしま す!」と思い切って頼んだ。するとハルさんは、すうっと背筋を伸ばし、深く深く息を吸い込んでから、ひとつの瞽女歌を歌ってくださったのだ。
 その声を聞いた瞬間、私は身震いした。びんと響く破れた声が、魂をぶつけるようにまっすぐに飛んできた。目の前一杯に越後の山河が見え、真冬の川に向かって稽古をする少女が見えてきた。気がつくと私は涙を流していた。あの日の感動は今も決して忘れない。

○打ちのめされる

 あのときの涙は、後にも先にも経験がない。いきなり殴打されたか、雷にでも打たれたように、私は声にならない悲鳴をあげ、震え、どうっと涙が溢れて、そのまま止まらなくなってしまった。あれは感動したというより、打ちのめされたのだと今は思う。
 そのときのことを長唄の山口先生にお話すると、「ひとつの経験が人生をすっかり変えてしまうことがあると聞くけれど、里枝子さんにとって、小林ハルさんとの出会いは、そういう経験だったのね」と深い理解を示してくださった。
 そうだったと思う。ハルさんの声は、声というより山鳴り、あるいは轟く川音だった。人によく思われようとか、上手に唄おうとか、そうした意図のひとかけらもない響きが、抑揚やビブラートもなく、まっすぐに鼓膜をつき破ってきた。
 私は朗読や語りをするときには、どんな声で、どう表現したらよいか、自分なりには細部まで考える。「虫眼鏡で見たような朗読」と言われたこともある。より感動的に語りたいという欲も働く。
 でも、そういうことを何万回重ねても到底到達できない無私の心が、神秘の声を発するのをあのとき私は聞いてしまった気がする。
 だから、当然そのときは、自分が瞽女唄を習おうなどとは思いもよらなかった。人が真似できるものではないと思ったし、ハルさんの新潟弁の歌詞は、ほとんど理解できなかったからだ。
 それだけに「点字毎日」で、ハルさんが2005年に105才で亡くなったニュースを読んだときは、非常に悲しかった。ハルさんとともに、あの清冽な瞽女唄も死んでしまったと思った。

○広瀬浩二郎さんの手記を読む

 ハルさんを訪ねてから10年近くが過ぎ、仕事や家事の傍ら、長唄のお稽古に励んでいた一昨年の秋のことだった。私は、国立民族学博物館の准教授で全盲の広瀬浩二郎さんが、「点字毎日」に連載していた「ミドルライフ・ブルース ? シカゴの響き」という手記を読んだ。
 広瀬さんは、シカゴを中心に大学などのさまざまな場で日本固有の瞽女唄について研究発表をし、反響を呼んでいるとのことだった。また、ブルースと瞽女唄の共通点などについて、興味深い文を書いておられた。次に一部を記す。

「ここ数年、僕は瞽女の研究をしている。残念ながら21 世紀の現在、瞽女や琵琶法師は消滅してしまったが、彼らの芸能に代表される盲人文化をどのように再生すべきなのか、僕なりに考えてきた。明治期に瞽女唄を聴いたラフカディオ・ハーンは、以下のように述べている。
 『私は、これほど美しい唄を聴いたことがありません。その女の声の中には、人生の一切の悲しみと美とが、また一切の苦と喜びが震動しておりました。』もしかすると、ハーンが感じた震動とは、ブルースが僕にもたらした興奮と同じなのではなかろうか。日本語力がまだ不十分だったハーンと同様に、英語が苦手な僕は、かえって音の響きに集中できたという面がある。ブルースは、アメリカの瞽女唄なのだ! 瞽女と黒人の魂の共鳴を実感したのは、新鮮な驚きだった。
 瞽女たちは各地を旅し、視覚以外の全身の感覚で得た情報を瞽女唄として表現した。瞽女唄を聴いた晴眼者は、語り物に内包される心象風景をありありと思い浮かべることができた。瞽女唄の震動によって、盲女と晴眼者は『見えない世界をみる』醍醐味を共有していたのである。音痴の僕には、ブルースや瞽女唄の震動を再現することは難しい。でも、触覚や聴覚、さらには皮膚感覚を駆使して、晴眼者とは違う角度から多様な事物を身体でみることができるかもしれない。」

 アメリカに居ながら瞽女唄に想いこがれておられる広瀬さんの文にふれて、私のなかで再び何かが動き出した。ハルさんの瞽女唄を伝承した人は、1人もいなかったのだろうか?もしも1 人でもおられるなら、瞽女唄の灯を守るために、私にもできることがありはしないか、そんな考えが湧いて私はインターネットで瞽女唄の伝承者について調べ始めた。
 そして、新潟市を拠点に瞽女唄の唄い手として活動し、教えておられる萱森直子さんを知った。

○萱森直子さんの瞽女唄をCD で聞く

 萱森さんは、長岡瞽女であった小林ハルさんが晩年に直接教えた2 人の晴眼の弟子のうちの1 人である。ハルさんの伝えた3 種類の節回しで祭文松坂を唄いわけることができるなど、たくさんの演目を伝承しておられる。杉本シズさんを通して高田系瞽女唄も習得し、長岡・高田両系統の瞽女唄の伝授を受けた唯一の伝承者だ。
 私は、萱森さんのホームページを読んで、萱森さんが、ハルさんの芸と精神を尊重し、ハルさんの芸に現代の解釈や晴眼者の感覚で手を加えないようにしておられることを知った。そこで萱森さんのプライベートレーベルCD を数枚取り寄せて聞いた。
 CDでは、残念ながら、あの瞽女唄独特の波動は伝わってこなかったが、何よりうれしかったのは、瞽女唄の文句が初めてはっきりわかったことだ。萱森さんは、ハルさんの唄を私にわかる言葉で明快に伝えてくださっていた。淡々とした語り口ながら、ひたむきで真面目な魂を感じて、私は、聞くほどに引きこまれた。そして、私が唄いたいのは、これではないか!と思った。
 瞽女唄には、今も昔も変わらない日本の庶民の心、女たちの心が、そのままそこにあると感じた。日本の地面から生え出た野花や竹藪や、樹木の歌。盲目の瞽女さんたちが野山を歩き、聞きとって伝えてくれた唄。あまりに素朴で、見向きもされなかったために、奇跡のようにそこに残った命の歌だと思った。

○萱森直子さんのライブを聞く

 2014年2月21日。私は萱森さんの唄を初めて生で聞いた。朝子さんと安希さんに同行してもらったおかげで、東京のブローダーハウスで開かれた萱森さんの定例公演「瞽女唄が聞こえる2014」の昼と夜のライブを両方聞けたのである。
 その前の6日間、私は、1メートル近く積もった大雪に閉じ込められて家から出られなかった。このままではライブに行けるかどうかわからないと不安に思っていたとき、朝子さんが、「3人で確実に行けるように、里枝ちゃんはうちに前泊しない?」と背中を押してくれた。おかげで私は、はっと力がわいて、あちこちに相談した。それで区長さんはじめ、5名の地域の役員の方が、昼休み返上で家の前の長い坂の雪をかいて私と盲導犬のネルーダが歩くための40センチ幅の道を作ってくださり、そのおかげで出かけることができた。
 当日、安希さんが颯爽と電車に乗り込んできてくれたときも、さっと周りの空気が変わったと感じたくらい、心強かった。この2人となら、何でもできそうな気がしてきた。
この日の演目は、祭文松坂の「佐倉惣五郎」を中心に、「県づくし」「出雲節(梅のくどき)」などだった。私は食い入るように聞いた。特に夜のライブは、1番前のかぶりつき席で、息づかいさえ聞き逃すまいという真剣さで聞いた。私が萱森さんの唄にもっていたイメージは裏切られなかった。生で聞くと一層迫力があり、剛直な唄いぶりは、揺るぎなく私に伝わってきた。
 なかでも「佐倉惣五郎」に私は感動した。
 長唄で五郎といえば、「五郎時宗」で、私はちょうどこの曲を習っているところだった。よく知られた長唄の名曲のひとつである。ストーリーは、勇猛果敢で美男の五郎が、仇討ちを果たすために死を覚悟し、名高い女郎に雨のなか逢いに行くというものだ。三味線の旋律は、ときに勇ましく、ときにしっとりと場面を盛り上げる。
 ところが瞽女唄の「惣五郎」はどうだろう。三味線は、単調な一定の音階の繰り返しで、唄も単調に綿々と続く。それでいてどういうわけか、くっきりと場面が見え、ぐいぐいと引きこまれてしまう。ストーリーは、武士である惣五郎が、藩主の苛政に苦しみあえぐ民衆の暮らしを見かねて、直訴を企て、失敗して捕えられるところから始まる。惣五郎は、もう1 度直訴しようと決意し、今度こそ死罪になることを覚悟するが、家族を同罪にしないために離縁を決意し、闇にまぎれて家族に会いに行く。ところがそこには川の流れが立ちはだかり、やっと会えた家族は、困窮していて、惣五郎にすがりつく…
 この惣五郎は、長唄の五郎とは対照的な庶民の英雄だった。しかも、妻もたくさんの子もいて、妻は必死に訴えるので惣五郎は苦しむ。単に英雄ではない生身の男の姿がそこには見えた。
 「佐倉惣五郎」の段と段の間には、斎藤隆介作の『べろ出しチョンマ』の朗読が入った。ここで私は、またあっと叫びそうになった。同じ義民伝を題材にした朗読が入ることは前もって知っていたが、まさか『べろ出しチョンマ』とは思わなかった。この作品は、私が視力をなくして弱りきっていたときに朝子さんが枕もとで読んでくれた特別の思い出のある作品だった。その作品をここで朝子さんと一緒に聞くことになるとは、なんと不思議なことだろう。すべてが綿密に計画された運命のように感じて、ぞくぞくした。
 昼の部が終わったところで会場を出て1 階に降りると、萱森さんが降りてきて、皆さんとにこやかに挨拶しておられた。大勢の方が萱森さんを取り巻いていたので、私が何となく尻込みしていると、安希さんが、「里枝ちゃん、萱森さんとお話したいでしょう」と言って、私の腕をとり、挨拶したい人の列に並んでくれた。
 いよいよ自分の番になったとき、私は緊張して、何と言ってご挨拶したか憶えがない。気がつくと初対面の萱森さんの手を握って、「お稽古に伺わせていただけないでしょうか?」と尋ねていた。 萱森さんは「ええ、私でよければ」と、優しく答えてくださった。
 私はうれしかったが、同時に恥ずかしく、頬が熱くなった。胸に温めていた気持ちだったけれど、お会いしてすぐにこんなことを言いだすなんて、自分にあきれてしまった。あわててお礼を述べ、安希さんとネルーダにつかまって、急いで人々のそばを離れた。

○萱森直子さんへのメール 2014年3月2日

 こちら東信濃は、先日の大雪で1 メートル近く積もった雪がようやく溶けはじめ、今朝も窓をゆする風の音と一緒にあちこちから雪溶け水の流れる音が聞こえています。先日は、ブローダーハウスで萱森さんの瞽女唄を初めて直接お聞きでき、感激いたしました。萱森さんはじめ、温かく迎えてくださったブローダーハウスの方々、一緒に行ってくれた友人たちに心から感謝の気持ちです。
 あの日、申し上げました萱森さんのところにお稽古に伺わせていただけないでしょうか、ということは、私が温めてきた願いでした。
 東京から3 か月に1 度お稽古に来ている方もありますと教えていただいてからは、そのペースなら、私も信州から通えるかもしれないと希望が湧いております。ですが、萱森さんの瞽女唄を初めて生で聞かせていただいて、その迫力に圧倒され、長唄とは全く別の世界であることを一層実感してからは、なんて大胆なことを言いだしてしまったのだろうと、恐れる気持ちも出てきて、その後、自分に問い返していました。
 私は瞽女唄と瞽女として生きた人々にどうしても心魅かれていて、少しでも知りたい、近づきたいという気持ちがあります。それが私の場合は、本を読んで資料を調べるとか、研究するということより、ほんの数曲でも瞽女唄を体の中にしっかり入れて、自分で唄ったり弾いたりしながら味わいたいということなのだと思います。
 また、私は、ラジオの仕事や、講演活動を通して、視覚障害や盲導犬のことを伝えてきました。ラジオの仕事のなかで最も感動したことと聞かれると、いつも話してきたのは、黒川 村での小林ハルさんとの出会いのことでした。その意味で、瞽女唄や瞽女さんたちのこと、ハルさんのこと、萱森さんのことを少しでも深く知って、紹介できるようになりたいという気持ちもあります。
 こんな単純素朴な気持ちですが、これでお稽古をお願いできるものかどうか、萱森さんにご相談したいと思いました。

○越後瞽女唄探求の旅はじまる

 このぶしつけなメールに対して萱森さんは、「私などでよろしければどうぞおいで ください。お仕事もあり遠くもあるので大変だとは思いますが、広沢さんにとっても、やるだけの価値のあることなのではないかと感じています。まずは1度おいでになってくださいませんか」とお返事をくださった。
 私は喜んだ。だが、「まず、三味線がどれくらい弾けるか聞いて、それから今後のことを話し合いましょう」ということだったので、気を引き締めて、1か月間、長唄の「岸の柳」という曲の弾き語りを稽古した。
 こうして初めて新潟市の内野にある萱森さんのお宅へ行ったのは、4月4日のことだった。このときも朝子さんが高崎駅から同行してくれて本当に心強かった。この旅に「越後瞽女唄探求の旅」と名づけて、詳しいスケジュールをたててくれたのも朝子さんだった。
 私の家から萱森さんのお宅までは、新幹線を使ってもおよそ5時間かかる。昼過ぎに萱森さんのお宅に着いて、まず「岸の柳」の弾き語りを聞いていただいた。萱森さんは「これならいいでしょう。これだけ弾ければ瞽女唄の三味線は簡単ですよ。今後の予定をたてましょう」と言ってくださり、私はほっと息をついた。
 萱森さんは、無理なく長く続けてほしいと言ってくださり、お稽古は、3か月に度、第1 金曜日に通うことから始めることになった。演目は、祭文松坂「巡礼おつる」1の段、2の段から習い、余裕が出てきたら「正月祝いくどき」「佐渡おけさ」なども並行して習うことになった。
 祭文松坂は、長い物語を一定の旋律にのせて展開するもので、1段が大体25分前後で長いものだと10 段くらいになる。これができないと「一丁前じゃない」と言われてしまうのだそうだ。
 続いて祭文松坂の三味線の初歩と、唄い方の初歩を教えていただいた。瞽女唄の三味線は、弾き方やリズムが長唄と違うのでとまどったが、左手の指使いは、長唄より簡単そうだった。中指で半音を抑えることはあまりないそうで、人差し指か薬指で抑えるか、解放弦で用が足りる。なるほどこれなら見えなくても弾きやすく教えやすいことだろう。
 瞽女唄は、楽譜も使わないとのこと。萱森さんは、見えない人々が耳で聞いて覚えて受け継いできた芸能なので、晴眼のお弟子さんたちにも、譜面や歌詞を見ながら演奏しないように言っているそうだ。それなら私もみんなと同じ立場でお稽古ができるとわかって、のびのびした気持ちになった。
 また、瞽女唄は、それぞれの生まれつきの言葉と音色で唄うところに特色があるそうだ。なまりのある人は、それぞれのなまりで、標準語の人は標準語でよいと聞いて、私は思わず「まあ、うれしい!」と声をあげた。
 他にも、祭文松坂の長い語りは、映像を思い浮かべてそれを動かしながら語るとよいこと。瞽女唄は、あくまでも聞き手に喜んでもらうためのものなので、状況や相手に合わせて多彩に変化する自由さや即興性があることなども教えていただいた。これらは、私が親しんできた昔話の語りとも共通だ。
 私は、これらの瞽女唄の特徴を聞いて一層わくわくした。瞽女唄は、なにもかも見えない人向きにできていると思った。これをこのまま残してくださった見えない先輩たちと萱森さんに改めて感謝した。
 初めてのお稽古の後、朝子さんと私と盲導犬のネルーダは、JR越後線とバスを乗り継いで、笹神村の出湯温泉に向かった。
 出湯温泉は、古くから湯治場として知られる静かな温泉地で、ハルさんが晩年に13年間暮らした土地だ。特に大石屋旅館は、萱森さん自身、一番縁のある旅館なので、「ぜひ行ってみるといいでしょう」と教えていただき、この機会に泊まることにした。
 聞いていた通り、大石屋旅館は親切で、若い女将さんと、年配の仲居さんが温かくもてなしてくださった。年配の仲居さんは、ハルさんが華報寺の石段に座って唄うのを聞いたことがあったそうだ。ハルさんが、手甲・脚袢をつけた瞽女姿で三味線を抱えて演奏している写真なども見せてくださった。
 翌朝は、朝子さんと二人で出湯温泉を散策。ハルさんが養女の娘さんと入ったという華報寺の寺湯に浸かったり、ハルさんが暮らした家の跡地や、ハルさんを世話されていた二瓶さんの営んでいた石水亭の前などに立った。
 越後の春は遅く、桜にはまだ少し早かったが、ゆっくりと静かな時間を過ごしながら、ハルさんを偲んだひと時だった。

○越後瞽女唄探求の旅は続く

 こうして萱森さんは、私の師匠になってくださり、私は弟子になった。ここからは萱森先生と書かせていただく。
 私は、萱森先生の弟子にしていただいたことに感謝している。萱森先生は、私と同じ年だそうだが、しっかりした考えをもった聡明な方だ。指導は、無駄がなく、たいへんわかりやすい。
 私がハルさんの芸にふれたのは、たった1度だけだが、1度でも聞かせていただいたために、あの芸を私がハルさんから直接学ぶことは絶対にできなかったとわかる。
 逆に私には日本語ともわからなかったあの偉大な芸を、受け止め、消化し、整理し、人にわかりやすく教えるまでの萱森先生のご努力は、どれほどのものだったろうかと、いつも頭が下がる。
 その後、お稽古は、7月と12月に2度行くことができた。
 私は4月中旬から4代目の盲導犬、ジャスミンとの共同訓練にはいったため、1か月以上、三味線にさわれない期間があったが、ジャスミンと二人で新潟に通うことが目標の一つになった。
 10月には、ひどい喘息になり、仕事にも障ったため、長唄と瞽女唄の両立は難しいと悩んだ。だが、これも前向きに考えれば、悩んだことで、瞽女唄に集中する決心がようやくついた。
 昨年の3回のお稽古で指導していただいた曲は4曲だった。新潟まで歩いて行くぞ、と意気込んでいるのに、まだ庭先にいるといったところだろうか。それでも私にとっては大事な最初の曲なので、ここに記しておくと、祭文松坂「巡礼おつる」1の段・2の段。「正月祝い口説き」「夢和讃」だった。その後に取り組んでいるのは、祭文松坂「巡礼おつる」3の段、4の段。「出雲節(梅のくどき)」「お茶和讃」などだ。
 こう書き並べても、読者には、想像がつかないことだろう。そこで習った短い唄のうち、おめでたいお正月の祝い唄の文句を1 つ記すことにした。

○正月祝いくどき

ことしゃ豊年満作どしよ
あきのかたから七福神が
福を招いておいででござる
ひとつ日もよし正月はじめ
ふたつ二日の晩に夢見がよくて
みっつ三日の晩に夢見がかのた
よっつ世継ぎの宝をもうけ
いつつ眷属ましたるうえに
むっつむつまじく家内が繁盛
ななつなにかに商いはじめ
人によいとてほめられまする
やっつ山ほど俵を積んで
ここのつここらで蔵までたてて
とおに戸前までつめこみまする
だんなお大黒おかみさんはえびす
あとの子供しょ七福神よ
うたえけれこそ おめで さえ
たい やれえ

 この唄は、正月とついているが正月だけに唄うわけではなかったそうだ。養蚕が盛んな地域へ行くと蚕棚の前で唄ってくれと言われ、田んぼの地域では苗のすじにむかって唄ってくれと言われることもよくあったそうだ。そのようなときにはこの唄を唄うのだと萱森先生はハルさんから教わったという。
 「荷物も解かないうちに、早く早くと急かされて苗床に連れて行かれたこともあったって師匠は話していましたよ」と、ハルさんのことを話すとき、萱森先生は、とても懐かしそうに語る。私も、お稽古の合間に、こんな話を伺うのが好きだ。

○新しい年に思う

 瞽女唄にふれているとき、私は瞽女として生きた多くの女性たちや、瞽女唄を愛した素朴な人々を思う。そして、それらの人々や、彼等が暮らした大地や生き物たちと、そっとつながるような安らぎを感じる。
 12月のお稽古のあと、萱森先生は「すごくよくなってたので本当にうれしいことでした。熱心でいらっしゃるのでこちらもやりがいあります」とメールをくださった。
 私も嬉しくなって、今年は5 回、お稽古に行こう。新潟に行ったら、美味しい海の幸を味わったり、少し足を延ばして瞽女さんたちが歩いた越後の風土を感じてみようと楽しい計画を思い描いた。
 もちろん習い事としては、年に5回というのは少なすぎる。それでも実際に三味線を抱いて唄ってみると、演者だけにわかる喜びがあることも感じ始めた。
 あの独特のリズムを奏でるときの、指が糸の上をスキップするような楽しさ。周りを囲む厚い雲を声でぐんぐんと押していき、ふわっと押し戻されつつ、またぐんと押し返す感覚。根が生えたように沈み込んでは、伸び上がって揺らぎ、また沈み込む。
 まだあの振動は、全く表現できないが、外で稽古するときなどは、全身が洞穴か何か、ただの清々しい風の通り道になるような不思議な感覚を時に味わう。
 萱森先生が「広沢さんにとっても、やるだけの価値のあることなのではないかと感じています」と書いてくださったその価値は、私自身にとっての価値なのだと思う。
 萱森先生は、私へのメールに次のように書いておられる。

 「ごぜさんたちは『かわいそうな』『あわれな』というイメージを持たれがちですけれど決してそうではありません。一言でいうなら『強烈なプロ意識を持った芸人』というべきでしょうね。私の師匠もそういう人でした。そんなことも私の唄をとおして多くの方々にお伝えしたいことがらのひとつです」

 私も深く共感した。
 盲目であるために苦労はしても、苦労によって自分を磨き、堂々と生きた人々が昔も今も存在する。そのことを瞽女唄の音色をとおして、私もいつの日か人々に伝えられるようになれたらどんなにいいだろう。そのときには、私は決して1 人ではなく、ハルさんや、たくさんの名もない瞽女さんたちの魂と一緒に唄っていると感じることだろう。

[参考資料]
 越後瞽女唄と津軽三味線 萱森直子です。
http://www.echigo-gozeuta.com/html

(「点字毎日 第4660号」 2013年10月6日発行)