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里枝子のエッセイ

講演記録「心を分かちあう仲間づくり」

第34回 長野県知的障害福祉大会 基調講演
(2011年12月)

 今大会のメインである基調講演の演題は「心を分かちあう仲間づくり〜ピア・サポート」でした。講師は、「上小地域障害者自立支援センター」ピア・カウンセラー、長野大学非常勤講師、SBCラジオ「里枝子の窓」パーソナリティー、広沢里枝子さんでした。基調講演の後半に広沢さんと「NPO法人 響きあう命の力」代表、清水佐登子さんとの対談がありました。

 皆様、こんにちは。(会場から「こんにちは」の声)
 皆様のお声が聞こえました。私は目が見えませんので、今のように声に出して答えていただけますと、皆様の様子が伝わってきて助かります。言葉でも、笑い声でも、拍手でも、何でもけっこうですので、皆様の音を私に聞かせていただければと思います。お願いできますでしょうか?(会場から拍手)
 今日はこうして皆様と交流できますこと、大変うれしく思います。私は、子どもの頃から少しづつ目が見えなくなって、今は全く見えません。ですが、養護学校の卒業生の皆様とは、ボランティアの皆様のご協力をいただいて、毎週東御市の中央公園で一緒に歩いたり一緒に走ったりしてトレーニングしています。4年前には、皆でホノルルマラソンにも参加しました。今日は、その仲間も、この会場に来てくださっていると思います。
 その仲間との交流を通して私、わかってきたことがあるんです。それは、目の見えない私たちと知的障害があると言われている仲間は、すごくいいコンビになれるということです。ホノルルマラソンに行ったときも、見えない私たちは、ボランティアの方に手を引いて案内していただかないと移動できないものですから、すごく手がかかるんですね。それで、知的障害のある方々は、最初のうち「見えない人ばっかりずるい!」っておっしゃっていたんです。本当にそうだと思いました。でも、段々に「見えない人って大変なんだ。椅子の位置がわからなかったり、教えてあげないと段からおっこっちゃったりするんだ」ということをわかってくださって、移動の度に声をかけて、案内していただけるようになったんですね。皆さんは案内するのがすごく得意で、私たちはしゃべることが得意なので、助けあいながらやっていけるなと思いました。ぜひ、これからも仲よくしていただきたいと思います。

 さて、今日のお話ですが、前半は、2つのことについてお話しようと思います。ひとつは、盲導犬と一緒に私がどんなふうに生活を切り開いてきたかということです。ふたつめは、ピア・カウンセリングと、ピア・カウンセリングをグループで行うピア・サポートグループについてです。これは障害のある人同士で行うカウンセリングなんですが、今は知的障害のあるピア・カウンセラーも活躍をはじめています。ぜひ、紹介したいと思いました。
 それから今日は、スペシャルゲストをお迎えしました。上田市の清水佐登子さんです。私は清水さんにお会いして、ぜひこの方のお話を皆様と一緒にお聞きしたいと強く思いました。今回は、とても緊張していらっしゃいますけれども、勇気をもって来てくださいました。清水さんのお話を楽しみにしていただきたいと思います。

 では、本題に入る前に、簡単に私とネルーダの紹介をいたします。私の名前は、広沢里枝子といいます。「里枝子さん」と気楽に呼んでいただければうれしいです。私は息子が2人いる母親です。息子たちは、2人とも今は大きくなって東京で働いています。ですから、今、一緒に暮らしている家族は、福祉の仕事をしている私の夫、この盲導犬のネルーダ、そして、隣の家に80才になるおばあちゃんがいてくれる、そんな生活です。
 仕事は、いくつかの仕事をしていますが、どれも私にとって大切な仕事です。毎週火曜日には、上田市の「ふれあい福祉センター」の2階にある「障害者総合支援センター」で、ピアカウンセラーとして働いています。もし見かけたら、声をかけてください。
 それから、ラジオでお話をする仕事、目が見えない仲間や、大学生に点字を教える仕事、子どもたちにお話をする仕事などをしています。

 では、次に私のしっぽのある娘、盲導犬を紹介します。名前は、広沢ネルーダといいます。「行動する詩人」と呼ばれたチリの詩人、パブロ・ネルーダから名前をいただきました。信州に来てからは、「起きててもネルーダ」と呼ばれています。(会場から笑い)
 盲導犬は、ネルーダのようにハーネスというベルトをつけています。ハーネスをつけているとき、盲導犬は、見えない人を道案内する仕事中です。
 じゃ、ちょっと伺いますね。今までに、テレビではなくて、実際に盲導犬がハーネスをつけて見えない人を道案内するのを見たことがある方はいますか?(会場から「はーい」の声)
 いらっしゃいますね。ありがとうございます。じゃ、初めて見る人は?(会場の別の方たちから「はーい」の声)
 同じくらいですね。初めて見ると、大きいのでびっくりするかもしれませんが、盲導犬は噛みつくことはありません。安心してください。盲導犬は、見えない人の目になって働く大事な犬なんだということをわかってもらえたらうれしいです。
 まだ盲導犬は少なくて、全国で約1070頭です。長野県では、22頭です。ネルーダはその中の貴重な1頭です。ネルーダは東京のアイメイト協会という盲導犬訓練所で訓練を受けました。
 ネルーダの特技は、道の左端ぎりぎりの所を上手に歩いてくれることです。道の端には、電柱があったり、車が止めてあったりしますから、それを避けたらすぐに左端へ戻るようにして道案内しないと、道の真ん中へ出れば、車に轢かれちゃいますからね。端の方を一生懸命案内してくれます。
 ですが、盲導犬は、ただ掴まっていれば目的地に連れて行ってくれる魔法の犬ではないんです。見えない私たちが、頭の中で地図を描いて指示を出します。「ストレート」(まっすぐ行きなさい)とか、「ライト」(右へ曲がりなさい)などと指示をだすと、その指示に従って、安全を守って歩いてくれるのが盲導犬の仕事です。
 それから、「盲導犬は間違えることがありますか?」と、よく聞かれます。はい、私も間違えますが、ネルーダも間違えます。その時は、「ノー!」と、いつも同じ言葉で注意して、一緒に何度でもやり直します。そして上手にできたら、「グッド!」ってうんと褒めてやるんです。そうすると「あ、こうすれば、お母さん喜んでくれるんだな」ってわかってくれて、段々道案内が上手になる。そんなふうにして力をあわせながら歩いています。
 だけど、犬が行き先を知っているわけではないのです。ですから、初めての場所や慣れない場所では、人に案内をお願いすることがあります。また、道を聞くこともあります。そんなときには、私たちは目が見えないので、指で指して「あっちだよ」と教えられてもわかりませんよね。だから、「この道をまっすぐ行って、最初の角を左に曲がってください」というふうに、具体的に教えてもらえると、とても助かります。
 私は、25年間盲導犬と歩いてきました。ネルーダは、3頭目の盲導犬です。
 では、今日は朗読をちりばめながら、お話を進めます。最初に1頭目の盲導犬キュリーと一生懸命子育てをしていた頃の思い出から、盲導犬と一緒に問題にぶつかっている場面を読みたいと思います。ちょっと恥ずかしいですけど、聞いてください。最初は、次男の全紀が2歳の頃、とってもやんちゃ坊主で困った頃の思い出です。

全紀行方不明

 急に全紀の声が聞こえなくなった。私は、あわてて公園中を探したがやっぱりいない。通りがかりの奥さんにお聞きすると 「お宅のお子さんかしら?あっちのほうに走って行きましたよ」 私「あっちですか?」 奥さん「あっちですよ。あっち。ああ、日信の工場のほうへ」 私「ありがとうございます。キュリー、お願い、マサキをみつけてね。キュリー、前へ!」 工場の前まで行くと、男性たちの声がしたので尋ねてみた。 男性「坊やなら、そっちの道をまがりましたよ」 私「そっちですか?」 男性「そっちですよ、そっち。 ああ、そうか。こっちです」 男性の一人が、一緒に道を渡ってくださった。渡り終えると、キュリーが急に速足に。全紀が見えたらしい。 私「キュリー、グッド!グット!」 そのとき遠くからマサキの明るい声 「おーい、かあたーん、わんわんいたよー!おいでー!」 なんと全紀は、よその家の犬小屋の前にぺたんとしゃがんで、犬と遊んでいた。 私「全紀ちゃん、お母さん、本当に心配したんだから・・・」 言いながら、思わず涙ぐんでしまった。全紀は不思議そうに 「かあたん、ちんぱいちたの?あん?」
 こんな思い出です。ありがとうございました。(会場から拍手)
 じゃ、もうひとつ読みます。盲導犬と歩く中で、入場拒否にぶつかったり、いろんなことがありました。特に1頭目のキュリーと歩いていた頃は、なかなか人々に理解してもらえませんでした。そんな頃の思い出です。

バス停

 上田のバスは、ほとんど車外放送がないので、誰かにどこ行きのバスか教えていただかないと、乗ることができない。すぐ前のベンチで、おばあさんたちの声がしたので、私は教えていただこうと思って声をかけた。 私「あの、おそれいります。私、目が見えないのですけれども、あと3分ほどで禰津行きのバスが来ると思うんです。来ましたら教えていただけますか?」 ところが、前のベンチは、しーんと静まりかえってしまった。もう一度頼んでみたが、やっぱり返事がない。困っていると、後ろにいた婦人が声をかけてくださった。 「私がお教えしますから。坊や、おばちゃんと手をつないで行こうね」 ところが、バスの入り口まで行くと、すぐ後ろで、先ほどのおばあさんたちの声がした。 「おっかねえ、おっかねえ。やだやだ」 「どっか行ってくんねえかやあ、こんなでっかい犬」すると、婦人が 「盲導犬ですから、大丈夫ですよ。さあ、坊や、乗って。さようなら」キュリーは、いつものように私をバスの一番後ろの席へ案内すると、足元に小さくなってうずくまった。全紀は窓に向って元気いっぱい手を振っている。 「おばちゃん、ありがとう!バイバーイ!」
 こんな思い出です。ありがとうございました。(会場から拍手)

 盲導犬と歩いた25年を振り返ると、本当に色々なことがありました。でも、こうやって問題にぶつかると、助けてくれる人もあって。人間って捨てたもんじゃないなって感じて歩いてこれたんじゃないかと思うんですね。
 私は、学校を卒業した後、名古屋で点字図書館に勤めていました。けれども、夫の実家が上田市の隣の東御市でしたので、この土地にお嫁に来るという形でやってきました。最初は双方の親の反対もあったわけですけれども、3年かけて私たちは、結婚の決心をしました。そのことを両親に伝えると、夫の父は、「そんなに愛していただか。わかった」と、一言で認めてくれました。
 けれども、周囲の誰もが、私のことはわかりにくかったと思うんですね。ほとんど見えなくなっていましたし。たとえば結婚式も、私が見えないことを伏せた形で進行してしまいました。困ったなと思いました。だって、ずっと隠して生きていくなんて、私はいやだなと思いました。そんなときに私が勤めていた点字図書館の館長先生が、祝辞にたって、こんな話をしてくださいました。この方は、ご自身も目が不自由な方です。
 「私は、里枝子と真一君を信頼しています。だけど、心配していることがあります。それは、里枝子の目が見えないことです。しかし、ヘレン・ケラーはこう申しました。『見えないことは、不自由だが、決して不幸ではない』と。里枝子が幸せになれるかどうかは、皆さんにかかっています。どうか、力を貸してやってください」と言ってくださったんですね。
 その言葉で、私が見えないことを初めて知ってびっくりされた方もいたと思うんですけれども、そのおかげで、結婚式が、応援する会みたいになりました。見えないことを表明しながら生きていく、現在の私の生活が始まりました。
 けれども、最初はこちらに知った人もなく、外出も不自由でしたから、家で閉じこもって過ごす日々でした。おばあちゃんたちからも、「いいからいいから、やってあげるから」と言ってもらって、座敷に座らせてもらっていました。気持ちを聞いてもらえるのは、夜遅く帰宅する夫だけという、閉ざされた生活だったんです。
 そんな中で、昭和59年に長男が生まれました。私たち夫婦にとっては、大きな大きな喜びでした。私と同じ病気の方では、出産の後、完全に目がみえなくなるという方が時々ありました。だから、私もそうかもしれないと思っていました。けれども、子どもを生むためにこの残り少ない視力を捨てるのであれば、ちっともかまわないと思えました。それくらい命を授かったことは、私にとって大きな喜びでした。それに見えないご夫妻でも、子どもを育てている方が大勢いらっしゃいます。だから私も、がんばれば子どもを育てていけると思っていました。
 けれども、実際に子育てが始まってみますと、全く見えなくなってしまった中での子育ては、途方にくれることの連続でした。なかでも困ったのは、家から一歩も出られないことでした。私は、子どもがおなかにいたときに、杖で家の周りを歩いていて、崖の上から転がり落ちてしまったことがありました。自分は怪我をしませんでしたが、子どもがおなかの中で怪我をしたんじゃないかと、生まれるまで心配しましたし、子どもが生まれてからは、子どもに怪我をさせてはいけないと思うと、家から出るのが、とても恐ろしかったです。でも、このままでは、本当に自分の限界の中に子どもを閉じ込めてしまうことになると思いました。周囲の人の中には、「子どもが大きくなれば、どこでも連れて行ってくれるんだからいいじゃないか。それまで我慢しなさいよ」と、おっしゃる方もいました。でも、私は、それを聞いたとき、すごく怖いと思ったの。だって、まだ赤ちゃんなのに、「大きくなったら、お前がやりなさいよ。家族なんだから、それが当然」みたいな。こんな小さな子どもまでが、家族としての責任を社会から負わされていることに気づいて、それってすごく怖いと思いました。だからなおのこと、私は自立したいと願ったのです。そのときは、夫が「盲導犬との共同訓練に行って来い」と言ってくれて、おじいちゃん、おばあちゃんが子どもを預かってくれて。そのおかげで1ヶ月間の訓練を受けて盲導犬と歩き出すことができました。
 それからは、盲導犬と一緒に子どもをおんぶして、大きなショルダーバッグにおむつとか、ミルクとかいっぱい入れて、自然の中へ、人の中へと出かけて行きました。
 子どもたちとキュリーは、兄弟みたいに育ちました。子どもとキュリーが二人でお話していて、何を話しているのかと思ったら、「キューちゃんのおかお、なんで黒いの?キューちゃんのお顔、わんわんみたいだねえ」って言っていたこともありました。キュリーの顔をよーく見たら、犬に似てるなあって初めて気づいたくらい、一緒に育っていたんですね。(会場から笑い)
 盲導犬と練習して、近くのスーパーにも行けるようになりました。ところが、すぐに問題がおきたんです。スーパーに「ペットお断り」という看板が立ちました。それをおばあちゃんが見て心配して、「行かないほうがいいんじゃないか」と言いました。夫は、「買い物は日常的に必要なんだから、逆に行ったほうがいいよ。とにかく行っていれば、こんな良い犬なんだから、わかってくれるさ」と言うんです。「看板は見えないことだし」って。(会場から笑い)
 それで、度々行ってるうちに、お店の人が、最初に私たちの味方になってくれました。お店に来るお客さんが、「あー、おっかねえ。やだやだ」とか言うと、「この犬は利口だだよ」「あたしより利口だ。あんたより利口だ」と言ってくれたりして。(会場から笑い)そうやって、段々と味方になってくれる人が増えていきました。
 それから、バスやタクシーでも、乗車拒否に度々遭いました。タクシーは最初の頃は、いくら手を挙げても止まってもらえないし、窓も開けてもらえないということがありました。その度に悲しい思いをしましたが、こういうときこそ、わかってもらえるチャンスと思いなおして懸命に説明しました。

 そして、私にとってひとつの転機になったのは、1991年に長野県が募集した「カナダ・アメリカふれあいの旅」に参加したことです。その頃、アメリカでは障害者差別を禁止するADA法が制定されて、バークレイの街では、バリアフリーが完成していました。歩道は、一部ではなく全ての歩道にスロープがあって、電動車いすの人が、一人で通行できるようになっていたんです。そうしたら、ほんの10分か20分くらい街を歩くだけで、何台もの電動車いすの走るシャンシャンという音を聞きました。「ああ、障害者は、街が変わればこんなに活躍できる人たちだったんだ。街が障害になっていたんだなあ」ということを、そのとき実感しました。
 そして、このアメリカの旅で学んだ自立の考え方があります。それは「2時間かかって一人で着換えて家にいる他ない人よりも、必要な介助を得て、15分で着換えて、他の有用な仕事のために働く人のほうが、はるかに自立しているといえる」という考え方です。
 私たちは、自分のことは自分でやりなさいと教わってきました。でも、できないこともあります。できないのに、それができなければ一人前じゃないと思いこんで、自分のことだけでいっぱい時間を使ってしまうよりも、必要なところでは援助を受けて、社会で活躍するほうが、ずっと大事なことなんだよと、教えてもらいました。
 そのことによって、私の生活も大きく広がりました。地域で、色々な方との出会いが生まれました。点訳ボランティアの皆さんは、私たち親子のために、たくさんの絵本や物語を点訳してくださいました。音訳ボランティアの皆さんは、最初は広報の音訳だけをしてくださっていましたけれど、家まで来て、生活に必要ないろんなものを読んでくださるようになりました。それから、スポーツボランティアの皆さんとの出会いもありました。
 そして、ヘルパーさんも家に来てくれるようになりました。私は、基本的な家事は自分でやっています。ですが、たとえば掃除はしても、その結果を見て確認することができません。確認ができないために、やってもやっても安心できなくて、何時間でも家事に関わりあわなくてはならないということがありました。けれども、週に1回、ヘルパーさんに私のできていない所の掃除をしていただくと、後は自分のやり方で、安心して家事ができるようになったんです。必要なところで支援していただくことによって、自分ができることが、もっともっと増えていく、社会に参加していけるんだということを実感してきました。

 では、次に障害者同士で支えあう、ピア・サポートについて、少しお話したいと思います。ピア・サポートにつきましては、パソコンの盲人用システムを使って資料をつくりましたので、詳しく知りたい方は、後で資料をお読みください。
 長野県は、各地の障害者自立支援センターで、障害者同士対等な立場で支えあうピア・カウンセリングを実施しています。その中でピア・サポートというのは、グループで話を聴きあうものです。1対1で聴きあうピア・カウンセリングの有用性は、だいぶ知られてきましたけれども、グループで聴きあう取り組みは、更に素晴らしいなあと実感しています。
 私たちがおこなっているのは、障害を持っている女性のサポートグループです。ゆっくりふんわりやっていこうというので、「羊雲の会」と名づけています。今年は9年目になります。ここでは、うれしいこと、悲しいこと、くやしかったこと、どんな気持ちも、安心してみんなに聞いてもらえます。「こんないやなことがあったんだよ。くやしい!」とか。そうした感情も安心して解放して、受け止めてもらえて、ちゃんとみんなが、秘密を守ってくれます。そして、温かく注目してくれます。私も、とてもつらい目にあって、ショックを受けたことがあります。そのときに、ピア・サポートの仲間に聴いてもらいました。皆は、膝が触れるくらいにそばに来て、私の手をとって話を聴いてくれたんです。おかげで、私は思う存分泣くことができました。
 皆さんも、自分がショックを受けたり、混乱しているときに、一方的にアドバイスされてしまうと、かえってわけがわからなくなっちゃうこと、ありませんか?逆に、信頼をこめてじっと聞いてもらうと、段々気持ちが落ち着いてきて、自分の考えが持てるようになります。ピア・カウンセリングは、そうして自分の考えを持つことによって、自分で選んで、自分で決めて、自分で責任を持って生きていくという生き方をするために、仲間同士で支えあうものなんです。主権を自分に取り戻す、そのためのものです。
 今ここに、知的障害のある方のピア・カウンセリングをやっての感想があるので、読んでみたいと思います。

「ピア・カウンセリング読本」から、知的障害の方のピア・カウンセリングをやっての言葉。
ピア・カウンセリングをやってよかったことは、みんなと仲よくなれた。
怒りたいときは怒ることができるし、泣きたいときは思い切り泣くことができる。
自分の気持ちを言えるようになったこと。
人の話をしっかり聞けるようになったこと。
仲間がついているから、大丈夫と思えるようになったこと。

 すばらしいですね。長野県でも、ピア・カウンセリングやピア・サポートグループが、更に広まっていくといいなと思います。
 ただ、相手の身になって話を聴くことは、決して簡単ではありません。自分の意見を言いたくなってしまって、我慢がいるときもあります。そんなときに、いつも思い出している詩がありますので、この詩をお伝えしたいと思います。

傾聴へのメッセージ

 私が聴いてと言っているのに、あなたはあれこれとアドバイスを与えてくれる/それは私が頼んだことじゃない/私が聴いてと言っているのに、あなたが理由をあげて、だからそういうふうに考えちゃいけないのよとお説教を始める/私の気持ちは踏みにじられる/私が聴いてと言っているのに、あなたはどうにかして私の問題を解決してやろうとする/ちょっとへんに聞こえるかもしれないけど、それは私を裏切ること/聴いて/私は何か話してとか、何かしてと頼んだわけじゃない/ただ聴いて、ただ耳を傾けてと言っただけ/私だってできる/力がないわけじゃない/意気消沈して打ちのめされているかもしれないけど、力が全くないわけじゃない/私ができることや、自分でしなければならないことなのに、私の代わりにやってやろうとすることは、私の不安や無気力感を大きくするだけ/私には私が感じていることがあるのだから、それがどんなにへんに聞こえても、それをそのまま受け入れて/そしたら、あなたを説き伏せることをすぐにやめて、私は自分のへんな気持ちの裏にあるものをあなたに説明する作業に取りかかるから/お祈りの効果があるのもそのため/神様は無言/問題を解決してやろうなんて乗り出さない/話を聴いているだけ/自分で解決するのを見守るだけ/だからお願い/私の話を聴いて/私の話に耳を傾けて/(サンフランシスコ精神障害者インディペンデントリソースセンター)

 ぜひ、皆様にお届けしたいと思った詩でした。ありがとうございました。(会場から拍手)

 では、ここでゲストの清水佐登子さんをお迎えしたいと思います。(会場から拍手)
 清水佐登子さんをご紹介します。清水さんは、「NPO法人 響きあう命の力」の理事長でいらっしゃいます。清水さんには、ご自身からも自己紹介していただきたいと思いますが、ご次男は高さんといいます。高さんは、チャージ症候群という難病のために、常時ケアが必要な重度重複の障害があります。
 私は、去年でしたか、上田養護学校で講演をさせていただいた後で、初めて高さんと清水さんにお会いしました。ネルーダと高さんがふれあう機会を作りたいと、清水さんが希望してくださったので、ネルーダと高さんに会いに行ったのです。
 そしたらネルーダが、高さんのお顔をぺろぺろと舐めましたので、高さんは、すごくくすぐったそうにしていて。それを見守る清水さんのご様子が、本当に穏やかで温かくて。お二人の周りを清らかな光が取り囲んでいるような、そんな静けさだったのです。それから1年。私は、いつか清水さんとお話したいと思いつめて、今日はお願いしました。では、もう1度、大きな拍手をお願いします。(会場から拍手)

 清水:皆さん、こんにちは。先ほど黄色いリーフレットを配らせていただいたんですが、それが、大会の冊子と同じ黄色で、本当に、うれしく思いました。私は、「NPO法人 響きあう命の力」「難病障害児者と関わる人の会」理事長の清水佐登子です。本日はよろしくお願いいたします。
 広沢:今日は、「命、共感、地域」をキーワードにお話ししようと、清水さんが言ってくださいました。本題に入る前に、今の高さんの様子と、チャージ症候群について教えてください。
 清水:はい。高は今、養護学校、特別支援学校の訪問教育部というところにいまして、16歳、高校1年生になります。チャージ症候群といいますのは、CHARGEと、アルファベットの1個づつが障害を表しています。目がみえない、耳がきこえない、呼吸と心臓、泌尿器に問題がある、といったいろいろな障害を併せ持っているそうです。
 広沢:そうですか。でも、高さんにお会いすると、いろんなことを体中で表現していらっしゃいますね。
 清水:ネルーダちゃんと会ったとき、ちょうど、ハーネスをはずしていたときでしたね。もう、本当にうれしそうにしていまして、わんちゃんとあんなに近くで会った事は初めてでしたので、私はもう本当に感動していました。
 広沢:あのときは、私も非常に感動しました。では、高さんがお生まれになった時のことから伺えるでしょうか?
 清水:高が生まれてすぐ、呼吸状態が良くないって言われました。すぐに、近くの病院へドクターカーで、搬送されたんです。私はひとり取り残されまして、寂寥感といいますか、孤独感といいますか、ひとりの病室は、本当に切なかったですね。
 広沢:その後、高さんに重い障害があることがわかったのですね。
 清水:検査をしました。安曇野にある県立病院まで、NICU車という特別な救急車で送っていただいたんです。結果が出るまで4日くらいかかりました。わかったので、聞きに来てくださいと言われて、行きました。白いボードの上に画像が全部貼ってあり、先生が、心房中隔欠損症、僧帽弁逆流症、、、とおっしゃいましたが、呪文のように聞こえてしまって障害があると理解できなくて、ただ、「はあ、そうですか、、、、」と。元の病院に戻ってきまして、主治医の先生に、「高君は目が見えません。耳がきこえません。たぶんことばもでないでしょう。食べ物も口からは難しいでしょう、、、」諸々のことを言われまして、どこをどう通ったかわからないで、気がついたら、駐車場のプラタナスのところに立っていました。お父さんの「本人も大変だが、こりゃあ、まわりも大変だぞ」ということばで、はっと我に返ったという状態でした。
 広沢:そうでしたか。高さんをご夫妻が抱っこできる状態になるまで、たぶん時間がかかったと思うのですが、お二人で初めて実際に高さんを抱きしめたときは、どんなお気持ちでしたか?
 清水:抱くこともできずに、ずっと病院の集中治療室にいました。MRI検査をするというので、当時入院していた病院には、MRIという機械がなかったものですから、近くの病院まで、検査にでかけたんですね。看護師さんもついてきてくださって。冬でした。寒々とした病院の待合室の廊下で待っていたんですが、看護師さんが、何かの用事で呼ばれて、いなくなったんです。親子3人になりました。腕の中の高をお父さんの腕にすべりこませるようにしましたら、お父さんがちょうど高を押し戴くようなかっこうになったんです。そして、ちょっと間があって、「ああ、神々しいなあ」ってつぶやいたんです。
 広沢:「神々しい」って、おっしゃったのですねえ・・
 清水:私も思わずうなずきました。無機質の病院の廊下の片隅で、今生きているこの子の命、というのが、私たち両親にとっては、神々しく映ったんです。ああ、人間ってこうして生まれてくるんだなあ、ってその時思いました。
 広沢:そうでしたか。もしかすると私が最初に高さんにお会いしたときに感じたのも、その「神々しい」ということだったかもしれません。うまく伝えられなかったけど、そう、生命の輝きというか、そういうものを高さんは、伝えてくれているんですね。
 清水:ありがとうございます。
 広沢:高さんが退院して、お家に帰ってからの生活は、また何もかも初めてのことだったでしょうね。医療的ケアも必要になったのでしょうか?
 清水:そうなんです。半年くらいしてうちに帰ってきたんです。その時はまだ、気管切開してなかったんですが、いつ眠っているのかいつ起きているのかわからないですし、常時吸引していました。朝調子良いなと思っても、昼「あれ、おかしい」と思って、夜になって「あ、これはもうだめ」と思って病院に連れて行くんですが、行くと、「入院です」と、言われるような状態でした。気管切開してからは、常時医療ケアが必要な状態でした。鼻腔管栄養っていいましてチューブが鼻から胃に入っていまして、そこから栄養を送るんですね。それは、3時間おきにしていましたし、吸引は、本当につきっきりで、ケアしていました。
 広沢:毎日が必死だったことでしょうね。その頃は、高さんだけでなくて、まだ、他の兄弟もお小さかったんですよね。
 清水:2つ上にお兄ちゃんがいて、5つ上にお姉ちゃんがいたので、特にお兄ちゃんはまだ小さいものですから、夜中に高の吸引をしていますと、うるさいですから起きてきて、「ママ、おしっこ」とか、言うんですね。「ちょっと、待っててね」と、くりかえしながら、吸引したり、、、2つ上の子を真ん中に抱っこして眠っていたのですが、高がゼコゼコっとすると、「ママ、高ちゃんみてやって。僕はいいから」って言うんですね。本当にそのような毎日でした。
 広沢:小さなお子さんたちも、精一杯協力してくれたのですね。
 清水:今思えば本当によくがんばったなと思います。
 広沢:本当によくがんばりましたね。そういう中で、地域の支援との出会いは、どのように始まったのでしょうか?
 清水:少し大きくなりまして、この障害をなんとかしたいという思いが生まれました。東京の大きい病院に行ったんですが、「このままでは、だめです」と、言われたんです。都会から家に戻ってきてさて、何ができるか考えたときに、「どうしていいか、わからない」という感じだったんです。帰ってきた次の日は、放心状態といいますか、「どうしたらいいんだろう。どうしたらいいんだろう」と、思うことばかりだったんです。そして、ふと障害を持っている子どものお母さんから、知的障害のあるアーティストのドキュメンタリー映画の上映会があるということを聞いていたことを思いだしたんです。本当にいっぱいいっぱいの毎日でしたので、終わる5分前に会場に着いたんです。もう終わり近いですし、暗くなってるし、迷ったんですが、えいってはいったんです。中は皆今頃誰?みたいな感じでした。暗い場内に後ろから光が入って「すみません」「すみません」って言いながら、入っていったんです。そしたら、会場の向こうの方からパイプいすが手渡しで私の方に送られてくるんです。ああ、向こうから持ってきてくれているんだと思いながら、見ていたら私のところにきて、でも、すごく混んでいたので、また「すみません」「すみません」と言っていすを広げたら、ちょうど、上映会が、終わったんです。「ああ、終わっちゃった」と思っていすを片付けようとしたとき、ちょうど、「小林さん」っていう声が聞こえまして、それで、その方がこの地域で相談にのってくださる方だとは知っていましたので、声をかけて、話をきいてもらいました。
 広沢:小林彰さんですね。
 清水:そうなんです。それで、今の状況を聞いていただこうと思って、話しかけたんです。
 広沢:自分からドアを開けて、話を聞いてもらおうと一歩踏み出したのですね。その一歩が、今につながっているのですね。
 清水:そうなんです。本当に感謝しています。
 広沢:そこから、様々な地域の支援が入るようになったのですか?
 清水:はい。それまでは、本当に医療的ケアという部分でわからない感じでやっていたんですが、訪問看護ステーションというところから、入浴のお手伝いに入っていただいたり。その頃は5箇所の病院の9診療科にかかっていて、あっちこっち、どこに行くにもキャンプに行くような荷物を持っていって。吸引の機械やマットとか、いろんなものを積んでいかなくてはならなくて、そのお手伝いをしていただいたり。姉兄たちも本当に不安定な状態だったので、大学生のお姉さんのメンタルフレンドをつけていただけたり、、、
 広沢:兄弟への支援も受けられたのですね。
 清水:はい。もうそろそろ保育園に行く時期かなと思っていましたので、通園施設から、保育士さんが自宅に来ていただけるというサービスも組み立ててくださいました。
 広沢:それらの支援は、みんなありがたかったと思うんですが、特に、これが助かったということはありますか?
 清水:高は特に風をきらうので、通院のときは車いすを玄関につけて、大急ぎで中に入り、また、急いで吸引の機械などを運んで、その後にまた、駐車場の片隅に車を動かすということをやっていましたので、荷物をもって中にいっぺんに入っていただける、それは、本当にありがたかったです。
 広沢:きめ細かいサービスがあったのですね。
 清水:はい。ありがたかったですね。
 広沢:その後、清水さんは「響きあう命の力」というNPO法人をお仲間と立ち上げたのですよね。どんなお気持ちから始めたのでしょうか?
 清水:小林さんと出会ったということは、社会とのつながりを作っていったという事になるんですけれども、そのとき、「ああ、ひとりでがんばらなくてもいいんだ」と思いました。それが、この会をつくる時の核になって、障害児のお母さん3人で、今まで本当にしんどかった、つらかった、切なかったというこの思いはこの場で私たちだけですませよう、これからの人たちには、もっと気持ちよくすごせるようにしよう、私たちこのつらかった思いを経験として、社会に活かしたいねという思いがありました。そして、カウンセラーの先生との出会いもあり、いろいろな方のご支援をいただきまして、平成19年に立ち上げることができました。
 広沢:おかあさんたちが、自ら手を取りあって、立ちあがったということですね。今は、どんな活動に力を入れているのでしょうか?
 清水:リーフレットを見て下さい。ピア・アドバイザーの養成研修、電話相談の養成研修、電話相談、あと、ピア・サポート、支援センターのへの取次ぎですね。また、講演活動や口腔ケア推進活動です。
 広沢:幅広い活動をしていますね。ピア・アドバイザーというのは、聞きなれない言葉ですが、具体的にどんなことをするのか教えていただけますか?
 清水:はい。ピアというのは、当事者同士ということなんです。私たちの会には、難病ですとか、重度の障害で、ご本人または家族、それと、ちょっと広げて関わっている人たち、そのピアという関係を活かしまして、すべての難病や重度の障害を持っている人たちが、地域で一生涯生きていくわけなんですけれども、そういった人たちが、健やかに、愛深く、たくましく地域でくらすことを応援しよう、また、その結果として、地域が豊かになっていく、高められていく、支援者も育てられていく、そういう視点からいろいろな啓発活動とか、命の尊厳とか、共生する地域社会の実現を目指して活動しましょうということですね。ピア・アドバイザーはそのための活動をする人たちを育てていこうということなんです。
 広沢:入会を希望される方は、どなたでもウエルカムなのですか?
 清水:はい。どなたでも来てください。楽しいです。
 広沢:「響きあう命の力」では、明日もイベントの予定があるそうですね。
 清水:はい。実は、明日、「歯から元気になろうフェスティバル」があるんです。歯はとても丈夫な器官で、一番後回しになるんですね。一番つらかったときに歯医者さんにもいけなくて、ほったらかしだったんですね。そこをちゃんとケアすると、身も心も元気になるぞということです。それは、体験で知りました。歯は自分でケアできる器官なので、自分でしっかりケアして、皆さん心も体も元気になりましょうっていうことです。本当にそういう内容で、恩返しできれば、と思ってする活動ですね。
 広沢:多くの方に、関心を持ってご参加いただけるとうれしいですね。
 清水:はい。ぜひ。
 広沢:先ほどのお話で、自分たちがしてきたようなつらい思いは、後の人たちにはさせたくないという3人のおかあさんたちの願いをお聞きしました。社会に対しては、どんな願いがありますか?一言では言いにくいかもしれませんが。
 清水:そうですね。やはり、皆がつながっている、絆がつながっている、皆がやさしい社会を目指しています。障害や難病に関わっていく中で本当に人の支援、機械ではなく、人の支援というのが、本当に大事ですし、本当にありがたいと思いました。本当にやさしい社会になっていけばいいなと思います。
 広沢:今日は、障害のあるお子さんを持つ父母の方々も、大勢いらっしゃっていると思います。最後に父母の方々へのメッセージがありましたら、お願いします。
 清水:私たちは、痛みとか、傷とかに感じやすいというか、気づきやすいと思うのです。今現在でも、自分自身の痛みに手をあてているわけなんですが、相手の方の傷に手をあてがうようなつながりを持てたらいいなと思います。
 広沢:本当にそうですね。つらいことをまた人にしてしまうのではなくて、それは抑えながら、人と関わりあうことができればいいですね。
 清水:はい。あたたかいまなざしとかあたたかいことばをかけて、はげましあいながら、一緒に生きているってことを感じあいながら生きていければいいなって感じています。
 広沢:今日は、本当に心に染み入るお話をしていただきました。清水佐登子さんに皆様、大きな拍手を。(会場から拍手)
 清水:ありがとうございました。

 皆様とご一緒に清水さんのお話を聞けてとてもよかったなあと思います。
 それでは、最後に清水さんと皆様に、語りを贈りたいと思います。これは、葉祥明さんの絵本です。私の母の古稀のお祝いに、母に感謝の気持ちを伝えたいと思って一生懸命覚えました。私が母に一番願っていることは、私を生んだことを喜んでくれることです。この一点です。
 では、お聴きください。

◆『生んでくれて、ありがとう』 (葉祥明 絵・文 サンマーク出版 発行) (語りの内容は省略いたしました)