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里枝子のエッセイ

私たちがふれた・感じた沖縄

信州沖縄塾連続講座より
(2011年5月14日・上田勤労者福祉センター)

 皆様、こんにちは。(会場から『こんにちは』の声)
 お声が聞こえました。私は目が見えませんので、今のように声に出して言っていただきますと、皆様の様子が伝わってきて助かります。言葉でも、笑い声でも、拍手でも、何でも結構ですので、皆様の音を私に聞かせていただければありがたいと思います。お願いできますでしょうか?(会場から拍手)
 まず最初に、伊波敏男さんはじめ、皆様にお礼を申し上げたいと思います。皆様にご協力いただき、おかげさまで、芹澤文子さんと息子と宜野座映子さんと共に、無事に沖縄の旅に行ってまいりました。心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。(会場から拍手)
 またこうして、皆様に御報告できる機会をいただきまして、恐縮しております。今日は、芹澤文子さんと私とで、時間を分けあって、それぞれの立場から報告しようということになりました。
 私の話は、「沖縄の旅で心に残った言葉」を中心に、絵葉書をお見せするようなかたちで、お伝えできたらいいなあと考えております。

 では、沖縄をめざした経過からお話しいたします。去年の12月に、文子さんと私で、沖縄、特に辺野古へ行って、美しい海を自分で感じてみたいね、と話をしたんです。そのときは、素朴に海辺に立てたらという気持ちだったのですが、私たちだけだったら見るべきものを見ず、聞くべきものを聞かずに帰ってきてしまうのではないかと思いました。それで、信州沖縄塾塾長の伊波敏男さんにご相談させていただきました。そこからですね、私たちの旅は、全然質の違うものになって、何かを飛び越えてしまったという感じがします。つまりですね、沖縄戦の歴史と、その後、沖縄の人々がどうやって生きてきたのか。そして今、辺野古や高江で、どんなことがおきているのか。その最前線にいらっしゃる方たちから、直接お話を聞くことができたわけです。こんなに恵まれてよいのかというほど、素晴らしい方たちにお会いしました。有名ではないかもしれませんが、本当に人として立派な方々でしたし、それぞれの方から、伝えきれないほど、いろんなことを教えていただきました。
 ところが、いざ報告しようと思ったら困ってしまいました。どこからどう報告していいか、歯がたちません。それで伊波さんにご相談しましたら、「沖縄の歴史は厚くて深いんだよ、本当に沖縄の歴史を知っているのは沖縄の人たちなんだから、貴女たちは貴女たちが感じたそのままを話したらいい」と言っていただいて、肩の荷がおりました。
 そんなわけで、私たちなりの旅の思い出をお伝えすることしかできませんが、どうか、おつきあいくださいませ。おそらく間違っていたり、足りないところがあると思います。最後に皆様との交流の時間をもちたいと思いますので、間違ったところがありましたら教えていただいたり、補足していただいたりして、助けていただけましたらありがたいです。よろしくお願いいたします。

 それでは最初に、私たちが誰といつどこに行ったのかを簡単にお話しいたします。旅のメンバーは、私と芹澤文子さんと、私の次男、24才です。次男は、私たちのボディガード兼運転手として一緒に行ってくれましたので、心強かったです。そして、この盲導犬ネルーダです。「起きててもネルーダ」と呼ばれています。ネルーダにとっては、初めての飛行機の旅でした。でも、ほとんど動じなくて。飛行機が上昇するときに、ちょっと頭を上げて、あれっという顔をしたらしいですけれど、大丈夫と思ったらしく、機内ではゆったりと寝そべっていました。そして、信州沖縄塾の沖縄会員の宜野座映子さんが、那覇空港に私たちを迎えに来てくださって、4日間同行してくださいました。本当にありがたかったです。
 映子さんのことは今、司会の堀田さんが丁寧にご紹介くださいましたとおり、沖縄で高校の教師をなさっていた方です。多くの若者たちを育て、今も支えていらっしゃいます。私たちと別れた後も、すぐに教え子さんの所へとんでいかれました。辺野古の闘いや平和運動に長年関わってこられて、おそらく沖縄の平和運動の中ではお母さんみたいに、みんなをバックアップする役割をずっとなさってきた方ではないかと思います。映子さんのおかげで、さらにいろいろな方と私たちは出会わせていただいたわけです。

 私たちの沖縄の旅は、3月26日から29日でした。25日に、信州沖縄塾の会員で、航空券の手配などの準備を整えてくださった宮島紀子さんに上田駅で見送っていただいて、東京へ行き、東京から出発しました。
 主な訪問先は、南風原文化センター。沖縄陸軍病院南風原壕群20号。佐敷教会。辺野古の海岸。東村の高江。そして最後に、本部からフェリーで伊江島に渡りまして、史跡を巡ってから、「ヌチドー宝の家」に行き、「土の宿」に泊まりました。

 それでは本題に入りたいと思います。沖縄の旅で私の心に残った言葉を聞いてください。最初は伊波敏男さんです。文子さんと私にメールで送ってくださった言葉です。

「沖縄と向き合うのはそんなに急ぐ必要はありません。もともと沖縄で刻まれている秒針は遅く、流れている時間はゆっくりです。」

 これは伊波さんからいただいた言葉でした。文子さんと私は、旅を計画する中で、ある歴史の刻まれた場所に足を踏み入れることに対して、非常に戸惑いを感じていました。それで伊波さんにご相談しました。そのときに伊波さんがくださったのが、この言葉だったのです。伊波さんは、そこへ行きなさいとおっしゃったのでもなく、行かなくてよいとおっしゃったのでもなかったのですが、この言葉を聞いて、私たちは本当にホッとしました。これ以上にぴったりくる言葉は無いくらい、胸に響きました。私たちが思っているより、ずっと沖縄という所はスケールが大きくて、深くて、いつでも私たちを待っていてくれるんだなあということが、その言葉から温かく伝わってきました。では、もう1回読みますね。

 「沖縄と向き合うのは、そんなに急ぐ必要はありません。もともと沖縄で刻まれている秒針は遅く、流れている時間はゆっくりです。」

 伊波敏男さんの言葉でした。(会場から大きな拍手)

 次は、ひめゆり平和記念資料館、学芸員の古賀徳子さんの言葉です。

「まさに死体の上を歩いていたんだとわかりました。」

 古賀徳子さんはひめゆり平和記念資料館の学芸員なのですが、私たちが行ったときは、ひめゆり資料館は工事中ということでお休みでした。徳子さんは、私たちのためにお休みを割いて、南風原文化センターと、沖縄陸軍病院南風原壕群20号の中を案内してくださいました。
 沖縄戦当時、南部への避難コースになった南風原は、住民の42%にあたる3345人の人が犠牲となった場所でした。町内の黄金森一帯には、陸軍病院壕が造られました。
 南風原文化センターには、いらしたことのある方もおありかと思いますが、館内には当時の陸軍病院壕の様子を再現したジオラマや、掘り出された遺品などを歴史の説明とともに展示してあります。徳子さんは、私の手をとって、その一つ一つに触らせながら、丁寧に説明してくださいました。
 壕の中で、傷病兵たちが寝かされていたベットというか、粗末な二段の木の棚も再現してあって触りました。ひとつの寝床に2人ずつ、二段の棚にぎっしりと寝かされていたそうです。傷病兵たちが使っていたブリキの水筒にも触りましたが、粗末なちっちゃな水筒でした。これで命をつないでいたんだなあ、ここに青酸カリ入りのミルクを注がれて殺された方もあったんだなあと思うと、胸が痛くなりました。それから、沖縄戦も最後の方になると、配られるおむすびが、ピンポン玉くらいの大きさだったとのことで、小さなピンポン玉にも触らせてもらいました。

 その後、徳子さんが「里枝子さんは、実際に歩いたほうがわかるだろうから」と言って、沖縄戦当時、ひめゆり学徒たちがご飯の入った樽などを抱えて行き来した「飯上げの道」を一緒に歩いて沖縄陸軍病院南風原壕群20号まで行きませんかと誘ってくださいました。炊事場は、南風原文化センターが今ある所の近くにあったので、看護補助のために動員されていたひめゆり学徒たちは、大きな樽を持って、空襲がしずまった間に、その坂道を必死に走って行ったり来たりしていたそうです。炊事場まで来るとスコップみたいなもので、樽にどんどんご飯を放り込んでもらったそうですが、待っている間に空襲が始まってしまうことも度々あったとのことです。
 このときは文子さんは足がご不自由なので、映子さんとネルーダと一緒に先に車で行き、「飯上げの道」を歩いたのは、徳子さんと私と息子の3人でした。丈高い草と木に覆われた細道を3人で登り降りしました。
 そのとき徳子さんが、ある場所でピタッと止まったんです。そして、「ここで男の子と30才ぐらいと思われる女性の死体が並んで出土しました。」と、おっしゃいました。徳子さんは学芸員ですから、様々な証言を聞いて、勉強をしていらっしゃる方ですが、実際に遺体の発掘に立ちあったのは、そのときが初めてだったそうです。

 「この丘の下に、多くの遺体が埋まっていることは知っていましたが、自分は、まさに死体の上を歩いていたんだとわかりました。」 この言葉が耳に残っています。古賀徳子さんの言葉でした。(会場から拍手)

 次は、沖縄陸軍病院南風原壕群20号で案内をしてくださった、平和ガイドボランティアの松井裕子さんの言葉です。

「米軍が安全を確保するために火炎放射器で焼きました。」

 松井裕子さんは、九州から沖縄に移住された方で、ボランティアとして陸軍病院南風原壕を案内していらっしゃいます。この壕の中で、多くの傷病兵をはじめとする方たちが実際に亡くなりました。
 松井さんの話では、まず3月26日、私たちが行ったちょうど66年前のその日に、米軍が上陸して沖縄戦が始まったことを聞きました。非常に驚きました。まさにその日に私たちはここへ呼ばれてきたんだなと、歴史を実感しました。
 松井さんは、壕の入り口で、ずっしりと重い鉄の塊みたいな鋭いものを私に持たせてくださって、「これ何だと思いますか?」とおっしゃいました。それは爆弾の破片でした。鋭く尖っていまして、こういうものが燃えながら無数に降ってきたというお話でした。
 それから壕の入り口には、66年前の沖縄戦のおりに、火炎放射器で焼かれた跡が、真っ黒に焼けて残っているそうです。松井さんが、それを説明するときの言葉が、「米軍が安全を確保するために火炎放射器で焼きました。」という言葉でした。
 なにげない言葉なんですけれども、松井さんも、徳子さんも、映子さんも、戦争で何がおこったかを正確に伝えようとしてくださいました。でも、誰かを責める言葉は一切使わなかったんですね。火炎放射器で焼きましたという許しがたい事実を話すにも、米兵には米兵の立場があったことをさりげなく説明されていました。それは明確に反戦を訴えつつも、憎しみの鎖を引き継がない決意があるからだと私は感じました。
 松井さんが壕の中で話してくださった、岡さんという生き残った傷病兵の方の証言も印象的でした。岡さんは、軍隊が壕を捨てて出発するときに、青酸カリの入ったミルクを配られて、それを飲もうとしましたが、苦くてこれは毒だと気づいて吐き出しました。それで、ひどい怪我をしていましたが、必死に起き上がって、この壕の中を逃げるんですね。ところがそのときに、味方であるはずの日本軍の兵士から発砲されるんです。壕の中が暗かったので、玉が当たらず、生き延びたということですけど、松井さんは、その話をするときも、日本兵たちは傷病兵が捕虜になる前に、自分たちで処置するように命令されていたと説明されました。撃った兵士を憎むのではなくて、戦争のために彼もそのような立場に追い込まれていたことを理解できるように伝えてくださいました。

 壕の中へは、松井さんの後について、みんなで体を屈めながら入って行きました。そこの様子は色々な方が報告されていると思いますが、じめじめとしていて、地面はぬめっとしていますし、狭いです。それに岩盤がもろくって、板で押さえてあるのが衝撃的でした。私たちは沖縄に行く前に松代大本営を見学してきたんですけれども、そこは、固い岩盤に、巨大な壕が掘られていて、そこに天皇陛下だとか、軍隊だとか、国の要人を迎えるということで立派に造ってありました。そこに入る人の安全を守るために堅固に造られた松代大本営と、陸軍病院壕の違いを実感しました。全然違う。松代大本営では、大本営を造るための捨て石として、沖縄戦があったという話を初めて聞いて、ショックを受けましたが、そういうものとしてこの壕も造られていたんだということを肌で感じました。

 この壕の中を歩いたときにですね、忘れられないのが、ネルーダがすごく臭いを嗅いでいました。入ったときから出るときまで、嗅ぎ続けていたんです。盲導犬は、歩きながら臭いを嗅がないように訓練を受けていますので、普段はしませんが、壕の中では、ずっと嗅いでいました。どれほどの臭いが、どれほどの悲しみが、この湿った土には染みついているのだろうかと感じました。

 出口が近づいたときに文子さんが、「ちょっとだけ祈らせていただいていいですか」とおっしゃいました。そしてみんなで黙祷を捧げました。
 では、この言葉をもう一度言いますね。「米軍が安全を確保するために火炎放射器で焼きました。」平和ガイドボランティアの松井裕子さんの言葉でした。(会場から拍手)

 次は辺野古の闘いで、船長であった佐敷教会の金井創牧師の言葉です。

「目の前にいる人は敵じゃない。この人たちと一緒に何とか平和をつくっていきたいと思うようになって。そう思うと、いくら殴られても、それで腹をたてることがなく、聖書の言葉は実践できるとわかってきました。」

 金井牧師は、2007年、2008年の辺野古の厳しい闘いのときに船長を務めた方です。毎朝4時に起きて、佐敷教会から辺野古まで通い続けたそうです。私たちも佐敷教会から、金井牧師の車の後について走ったんですが、思ったよりずっと遠かったです。この長距離を暗い中、金井牧師は走ってきたんだなあと思いました。しかも金井牧師の運転は、内に秘めた情熱を感じるような走りでした。そのくらいの勢いで、毎朝毎朝通われたんだと思います。
 私たちが着いた辺野古の海岸のようすは、この後、文子さんが写真をお見せしながら説明してくださると思いますが、とても美しい海岸だということがわかりました。私が見えなくてもそれを感じるのは、生臭い匂いが一切しないんですね。不思議だなあと思いました。本当に澄んでいる海水なんですね。足と手で触ってみましたけれども、なめらかな、清らかな海水が細波になって流れているのが感じられました。
 ところが、渚からすぐの海岸沿いには、米軍のキャンプシュワブの隔離塀がどこまでも続いていました。以前はそこに金網の柵があって、その金網に平和を願う人たちが沢山の色とりどりのリボンを付けていると聞きましたが、それは撤去されて、全くありませんでした。中が完全に見えないような巨大な隔離壁をこれから造るそうです。その土台が、私の身長を超えるぐらいの高さまでできていました。それが延々と続いていて、沖縄の美しい海と米軍のキャンプシュワブとを隔てていました。
 辺野古で新基地建設反対の運動をしてきた方たちは、今では、この海を感じに来て、観光に来てと呼びかけているそうです。観光に来た人たちを船に乗せて一回りすると、来た人は皆、このコンクリートの隔離壁とキャンプシュワブを見て、「なんでここにこんなものがあるの?」って言うそうです。私たちも、そう感じました。しかも、米軍の関係者以外の人間は、たとえ住民であってもここから入っちゃいけない、中を見てもいけないそうです。そういう場所が日本国内に造られていることに、非常に疑問というか、不思議な感じがしました。

 辺野古の闘いの歴史は、ご存知の方が少なくないと思いますが、金井牧師が海岸で、いい声で説明してくださった録音が残っていました。その中から少し書き出してきましたので読みたいと思います。金井牧師は、青空のように朗らかないいお声です。どうぞ、想像しながら聞いてください。

辺野古の海岸「命を守る会」のテント前で、
金井創牧師から聞いたお話

 ここ辺野古での闘いは、97年から始まっているので、もう14年になる長い闘いの場になりました。
 ここに既に米軍基地があるのに、新しく埋めたてをして米軍基地を造るという。政府は、普天間基地が危険だから、その代わりのものをここに造ると説明して、「代替施設」という言い方をしています。でも、代わりのものというのは、だいたい同じような規模のものを造るのが代わりであって、ここに造られようとしているものは全然代わりというものじゃない。何倍も機能が強化された新基地なんです。
 というのは、普天間基地はヘリコプターの発着所があるだけで、弾薬などはそこで積めません。積む場合は、一旦、嘉手納基地まで飛んで、嘉手納弾薬庫のものをそこで積んで作戦に出かけるということをしているんです。
 しかし、ここ辺野古には実戦部隊があります。この実戦部隊は、イラクにも、アフガンにも出撃しています。何年か前に、イラクのファルージャで、住民が米軍の攻撃によって大量に虐殺される事件がありました。その大量虐殺をおこなった部隊の一つが、実はこの辺野古のシュワブから出ているのです。
 そういう実戦部隊があって、しかも、辺野古弾薬庫もセットでここにありますから、ここに基地ができると実戦の兵士がすぐここで乗れる。実弾も積める。しかも、サンゴ礁の浅い海だけではなく、大浦湾まで滑走路を張り出させて岸壁を造るわけです。
 そこは水深40メートルあるので、アメリカの軍艦が、港を造らなくてもそのまま入ってきて横付けできるようになります。つまり、軍港の機能ももつというので、何倍もの機能をもった新基地なんです。アメリカとしても、そのほうが使い勝手がいいわけですよね。
 だから、決してこれは「代替施設」なんかじゃなくて、「新基地」だというので、沖縄県内では、「新基地建設反対」という言い方をしています。
 そういうことで、2007年以降も座りこみと海の闘いが続けられてきました。しかし、2004年、5年は、報道陣もいっぱい来て、テレビ番組にもなりましたけれど、その櫓のときの闘いと、2007年、8年の海の闘いは、全く質がちがっています。
 まず、海の上では、みんなが登って座りこめるような場所がないですから、作業船などは、常に海の上で動いて建設のための作業をしたり、調査をしたりするわけです。だから、止める側も常に船で動いてそれを止めなきゃいけないというので、激しさや危険度は、はるかに2007年以降のほうが厳しいのです。
 ところが2007年以降、メディアはほとんど来ませんでした。だから、2007年以降の闘いは、ほとんど知られていません。メディアとしては、撮ろうと思ったら自分たちも常に船で追いかけていなければいけないし、いつ阻止行動があるかもわからない。撮りにくかったということが一つあるとおもいます。
 それと、もうひとつは、様々な方面からの圧力が働いて、もう基地は造られてしまうという方向にどんどん行っていたんですね。
 だから、抵抗する人間もどんどん減っていきましたし、海の闘いは激しいので、一番厳しかった時期などは、朝、海に出るメンバーが集まったら3、4人という日もありました。でも、そういうなかで、みんなあきらめずにやり続けて、何とか今、着工させていないのです。(会場から大きな拍手)この拍手は金井牧師に贈りたいですね。本当にすごいと思います。
 ご存じだと思いますが、辺野古の闘いは非暴力の闘いなんですね。自分たちは傷ついても、決して相手は傷つけないというのが非暴力の闘いだそうです。言葉での暴力も決して使わなかったそうです。そして、「一番弱いカヌーで私たちは海へ出ました」と金井牧師は説明されました。つまり、相手を傷つけない一番弱いカヌーで海へ出て、作業が始まったり調査が始まったりするのを皆さんが、相手の船にしがみついて、体で止めてきたことをうかがいました。
 最も闘いが厳しかった頃には、相手の作業船のスクリューの所にもしがみついたそうです。スクリューを回されたら、こちらはミンチになるってわかっていたけれど、「回さないよね。回さないでくれますよね。」って言いながら祈りながら、何時間もそこにしがみついて止めたということでした。
 14年前から辺野古の闘いに関わってきたという映子さんに聞いたんですが、2007年以降の海底でのすさまじい闘いに参加できるダイビング資格保持者があまりにも少なく、映子さんも60歳を過ぎてからダイビングの資格をとって海底での闘いに参加されたそうです。海水は、私たちが行った3月末でも思った以上に冷たかったので、私は「寒くなかったですか?」って思わず聞いたんですよ。そしたら「寒かったですよ」って。それでも何時間でもしがみついて、一緒に船と揺れながら、着工を防いできたことがあったそうです。

 「命を守る会」のテント前の浜辺にはボートも3台積んであって、触らせてもらいました。どれも小さなボートでした。これに乗って行くときは、海の中へ人が飛びこんで、作業船などの前で立ち泳ぎをしながら止めてきたそうです。3台のボートには名前がついていて、ひとつは「ピースメイカー」といいました。もうひとつは「サーニーアルサラーム」といって、アラビア語なんです。意味は、「ピースメイカー」と同じような意味です。なぜ「サーニーアルサラーム」ってつけたかというと、ここの米軍基地から出撃した兵士たちが、イラクで民間人を殺害しているということで、殺される人たち、イラクやパレスチナの人たちと心をつなげて、海の阻止行動をするんだという思いを込めたそうです。
 もうひとつのボートの名前は、グアム島の先住民、チャモロ族の言葉で「イナフアマオレク」でした。やはり、平和とか、調和を生み出す人たちという意味です。どうしてチャモロの言葉をつけたかというと、沖縄の海兵隊をグアムに移す計画が何年か前に出ました。新基地建設に反対する人たちは、最初にそれを聞いたとき、グアムはアメリカ領ですから、沖縄県外に移すというので喜んだそうです。ところが、基地が移設される先は先住民のチャモロ族の暮らしている土地だということがわかったそうです。チャモロ族の方たちは選挙権が無いんだそうです。アメリカの中で、大変苦しい思いをしていながら、訴える場のない同じ立場の人々がいることを知って、その方たちとも連帯して、グアムに基地を造ることにも反対しようというので、「イナフアマオレク」と命名したというお話でした。

 私たちは情報不足で、たとえば米軍基地の辺野古移設に住民が反対していることが話題に出たときに、「でも、どこかが受けなきゃならないんだからしょうがないよね。そりゃあ、誰だって自分の所に来てほしくないだろうけれど、やっぱり人口の少ない所に行ってもらわなきゃ困るよね」って。そんな認識しかもっていない場合が少なくないと思うんです。でも、お話をうかがって、皆さんが、自分の所に来てほしくないということだけで闘ってきたのではないことがよくわかりました。そうではなくて、平和を守るために、戦争に巻きこまれて傷ついたり、亡くなっていく人々を思い、世界中の苦しんでいる人々を思って、ここで止めてくださっているのだとわかりました。それと、自分たちの運動だけで新基地建設を完全に止められるとは思っていらっしゃらないですね。皆が来てくれるのを待っていてくださる。待つために頑張って体を張っていてくださるんだなあということが、お話を聞いてよくわかりました。

 では、最初の言葉を少し前のところから、もう一度読みます。聖書の中に「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉があるのをご存じでしょうか?金井牧師は、最後に聖書のこの言葉を証ししてくださいました。

 「僕自身、ここで平和運動に関わるようになってから、聖書の読み方が変ってきましたし、聖書を生きる、イエスキリストに従って生きるというのは、こういうことなんだなと色んな場面で実感するようになりました。そのひとつは『誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』ということです。昔は、理想論だと思っていて、イエス様ならできるかもしれないけれど、凡人である自分は無理です、殴られたら腹がたつし、我慢はしても、もう一つの頬をさしだすなんてできないと思っていました。  けれども、ここで実感したことは、僕らを殴ってくる人たちっていうのは、雇われた漁師だったり、作業員だったりするんです。彼らも生活がかかっているし、ものすごく圧力をかけられて海に出てきていて、僕らと仲良くするような人だったら仕事がなくなるので、必要以上に激しく出てくるわけですね。  そういうのがわかると、目の前にいる人は敵じゃない、この人たちと一緒に何とか平和をつくっていきたいと思うようになって。そう思うと、いくら殴られても、それで腹をたてることがなく、聖書の言葉は実践できるとわかってきました。」

 辺野古の渚でうかがった金井創牧師の言葉でした。(会場から大きな拍手)

 次は、やんばる東村高江の住民、比嘉真人さんの言葉です。

「踏みつけられて、その上から踏みつけられて、踏みつけられての連続で、何の解決もしてないのに、次々ひどいことがやられる。」

 先日、信州沖縄塾で映画の上映会があって、そのときに「やんばるからのメッセージ〜高江の記録」という映画を見ました。ご覧になった方いますか?あ、いらっしゃいますね。ありがとうございます。
 その映像を撮られたのがこの比嘉真人さんです。マーティーと呼ばれていました。東京で映像の仕事をなさっていたそうです。そして、高江の状況を知って、この闘いが始まった頃からこちらに来られて、「高江ヘリパッドいらない住民の会」の事務局長として頑張っていらっしゃいます。

 やんばるの森は、多様な生物が暮らしている沖縄でも最も豊かな森だそうです。豊かな水資源もあるんですよね。高江の人口は、たった160名で、そのうちの2割が子どもさんだそうです。本当に小さな集落です。そこにジャングルでの戦闘を想定した米軍の広大な訓練基地が既にあります。そこにですね、日米の両政府がさらに6か所のヘリパッドを、住民が暮らしている静かな集落をぐるっと囲むようにして増設することを決めてしまったんです。ヘリパッドというのは、ヘリコプターが離着陸する敷地のことですね。
 しかも、そこに配備される予定のヘリコプターはオスプレーといって、アメリカでは何度も落ちたので、「未亡人製造機」と呼ばれているそうです。特に高江の住民は、自然の中での静かな暮らしを求めて、子どもたちと一緒に移り住んできた方たちが多いというのに、その親子の周りにこのオスプレーが離着陸するヘリパッドができようとしているわけなんですよね。

 マーティーさんのお話をもとに経過をざっと説明しますと、彼らは2006年のテレビ報道で、突然、自分たちの村にヘリパッド建設が決まったことを聞かされるわけです。そして、しばらくすると、今度は背広姿の方たちが大勢やってきて、ヘリパッドを造ることを前提とした説明会をするんですね。そこで一方的な説明を受けて、いやそれでは困る、私たちと話しあってほしいと言っているうちにも工事が着工してしまうんです。そこで何とかくい止めるために、最初は地べたに座ったそうです。今はテントがあるんですが、それは後から寄贈してもらった物で、とにかく地べたに座って止めなければいけないと思ったそうです。
 省庁に足を運んでも応じられなかったので、やむをえず現地で作業員に話しあいを求めるかたちで24時間の監視活動が始まりました。作業員は車両でつっこんでくるので、待ってください!ということをずっとやってきたそうです。それで2007年以後、やっと動きを止められたと思ったら、突然ある日、分厚い封筒が15名の住民の家に届きました。住民が妨害したということで、国から裁判に訴えられたわけです。住民の方たちと弁護団は、この訴訟を日本で初めての違法性の高いスラップ訴訟であると考えているそうです。そのときには子どもさんまで訴えられました。国から。えっと、比嘉さんの言葉によると、「くにという二文字の言葉のものから」と言いました。パイナップルを持ってきただけの方まで訴えられたそうです。すぐに弁護団が結成されて、これはおかしいということで、那覇地裁が13名については却下しました。けれども、何故か共同代表の2人は訴えられたまま裁判継争中だそうです。そういうことの中で、「踏みつけられて、その上から踏みつけられて」という言葉が出てきたんだと思います。

 比嘉さんのこの言葉の前のところから読んでみます。去年の12月からの最近の状況を語ってくださった部分です。
 お話を伺ったのは、ヘリパッドの建設作業が進むN4ゲート前に立てられたテントの中でした。すぐ横は県道で、車がビュンビュンと通っています。テントの覆いは風に震えて、パタパタと音がしてました。そして奥のほうからは、まるで別世界からの呼び声のように冴え冴えとした鳥の声が響いていました。そんな音の中で聞いたお話です。

「高江ヘリパッドいらない住民の会・ブロッコリーの会」
事務局長 比嘉真人さんの言葉

 「去年の12月22日。いきなり早朝の6時頃、真っ暗な中、150名ぐらいの作業員が、わっと来ました。佐久間さんというN1のテントで座りこみをしている方から、『たいへんなことになってる!』と連絡があって、みんなとび起きて、このN4ゲートに駆けつけました。
 すると、暗闇のなか、電灯もつけずにスクラムを組んで、住民の侵入を排除して、後ろで仮設フェンスを造っていた。
 裁判所で和解案が出された直後に、話しあいもできないような時間にいきなりつっこんできて、裁判所の意見も無視している状況です。
 その翌日の23日には、夜7時頃、米軍ヘリが、ここでホバリングをしたと言われています。空中で停止したり、ロープで降りてくるような訓練を県道の上空、15メートルぐらいのところでやりました。
 車で寝ていた人が、車が揺れて轟音がして、ヘリが去った後で見たら、このテントが四方八方になぎ倒されて物がみんな吹っ飛んでいたんです。
 ところが、そんな被害があって新聞の一面にも出たのに、翌日の24日、沖縄防衛局は、被害の調査もしないで更に工事を強行してきたわけです。みんな怒って、このときは追い帰したんですよ。
 国会議員や県会議員同伴で、沖縄防衛局にみんなで行って、局長に面談して、工事中止と、米軍ヘリの被害の調査を求めました。米軍は、通常訓練だったと答えたそうですが、通常訓練でこのようなことがおきるんだったら、これからもこんなことがおきるってことじゃないですか。看板も吹っ飛んでいたし、通行人がいたら怪我をしたはずです。
 そういう中で1月半ばから、毎日100人ぐらいの作業員を導入して、この被害をもたらしているもの、ヘリパッドを造るために工事が強行されました。木々の伐採が終わってしまって、砂利の搬入が進みました。
 一方で、徐々に人も集まってくれるようになって、何とか砂利の搬入は、最小限に止められたという状況です。
 3月から6月までは、ノグチゲラなどの希少鳥獣類の繁殖期になるから、防衛局は、重機を使った工事は控えることに環境アセスメントで決まっています。そのため、3月からは動きはありません。
 この間、1月半ばから2月いっぱいまで、24時間、みんなここに来て交代交代で見張りをしました。寝ても起きても24時間、頭の中は緊張してるんです。それが1ヶ月以上も続いていて、住民が、みんな同じなんですよ。
 また、7月からは、工事が再開されることが予想されるので、それに向けて、どういうふうにやっていくか話していかなきゃいけない。踏みつけられて、その上から踏みつけられて、踏みつけられての連続で、何の解決もしてないのに、次々ひどいことがやられる。」「高江ヘリパッドいらない住民の会・ブロッコリーの会」事務局長、比嘉真人さんのお話でした。(会場から大きな拍手)

 私たちは、旅の3日目にフェリーで伊江島へ渡りました。そして「土の宿」という所に泊まりました。「土の宿」は、木村浩子さんという重い脳性麻痺の障害をもつ女性が、仲間たちと一緒に平和を願ってつくった、誰もが安心して泊まれる民宿なんです。今度は木村浩子さんの言葉です。

「最後まで、いいことはいい、間違っていることは間違っていると、イエス・ノーをはっきり言いたい。人間だもの。」という、力強い言葉でした。

 浩子さんは72歳です。重い脳性まひのために、幼い頃からご苦労をされて施設に収容されていた時期もありました。でもそこから自由を求めて、たった一人で電車に乗って、自立生活をしている先輩のところへ指導を求めて出かけていくんですね。自分で排泄ができないので、何時間も飲まず食わずで。そうやって自立生活を勝ちとった、障害者の自立運動の早い時期からの先駆者、本当の先駆者のお一人です。  また、唯一自由に動かせる左足の親指と人差指を使って、野生の草花や、童画、俳画を主に描いてきた芸術家です。

 「土の宿」は平和を願って、沖縄戦の最初の激戦地であるこの伊江島に建てられました。手作りの宿なんですが、ここはとっても居心地のよい場所です。その様子も、この後、文子さんが写真をお見せしながら説明してくださると思います。
 「土の宿」の木作りの清々とした広間には、囲炉裏が切ってありました。その夜は沖縄としては珍しく寒かったので、その囲炉裏に木の枝を入れてパチパチ燃やしながら、みんなで暖まりながら夜ふけまで話をしました。
 浩子さんと映子さんは、古くからのお友達だそうです。
 浩子さんは全存在を懸けて、一つ一つを自分で選びとって生きてきた方だと思うんですね。そんな浩子さんから「私たちは自分のイエス・ノーを言わなきゃいけない。それが私が私であることだ」というメッセージをいただいて、こんなときだけにものすごく胸に響きました。

 「最後まで、いいことはいい、間違っていることは間違っていると、イエス・ノーをはっきり言いたい。人間だもの。」伊江島で「土の宿」を開いている木村浩子さんの言葉でした。(会場から大きな拍手)

 そして、最後は信州沖縄塾沖縄会員、宜野座映子さんの言葉です。

「私の意識はウチナーンチュです。沖縄は小さな島ですから、常にどこかに支配され属すしかない歴史をもっています。たとえ、アメリカに属したとしても、日本に属したとしても、中国に属したとしても、私の意識はウチナーンチュ。小さな島だけに、どことでも平和にやれる。」

 「土の宿」で、みんなで囲炉裏を囲んでいたときに映子さんが語ってくださった言葉です。浩子さんと、介護者のさっちゃんで「本物のウチナーンチュってどこにいるんだろうって話しあっていたんだけど、ここにいた!」と言って、隣にいた映子さんを指さしました。本物のウチナーンチュと、浩子さんたちからも認められた映子さんでした。
 映子さんがこの言葉をおっしゃったとき、私は見えませんでしたけど、背筋をピンと伸ばして、凛々しいお顔でおっしゃったように感じて、そのお姿が瞼に浮かびました。

 栄子さんは、戦後の沖縄に生まれたことで、大変なご苦労もなさったことと思います。でも、「沖縄こそが私だ。私はウチナーンチュだ」と胸を張って、誇りをもっておられるお気持ちが熱く伝わってきました。人間が生きていくためには、映子さんを貫いているような、こうしたアイデンティティーというか、誇りが、どうしても必要なんじゃないかと痛感しました。
 でも、その誇りの根拠が、沖縄が強いからじゃなくて、「小さな島だけに私たちは平和にやれる」ということにあるのを知って非常に感動しました。

 では、映子さんの言葉です。

 「私の意識はウチナーンチュです。沖縄は小さな島ですから、常にどこかに支配され属すしかない歴史を持っている。たとえ、アメリカに属したとしても、日本に属したとしても、中国に属したとしても、私の意識はウチナーンチュ。小さな島だけに、どことでも平和にやれる。」信州沖縄塾沖縄会員、宜野座映子さんの言葉でした。(会場から大きな拍手)

 以上、沖縄の旅で体験したこと、教えていただいたこと、お聞きしたことのほんの一部ですけれども、私の心に残ったことをお話ししました。もしかしたら、ご本人のお気持ちとずれているところがあったかもしれませんけれど、私がこう感じました、ということでお許しください。
 でも、ともかく本当に私自身行ってよかった、というか、行かなければいけなかったと感じています。

 まず、帰ってから私は元気になりました。大震災の後、自分でも後で考えるとどうなっちゃっていたのだろうと思うぐらいに、悶々とした、霧の中を歩いているような2週間でした。その後も、状況は決して変わってませんけれども、今、沖縄から帰ってきて、心のどこかに青空が観えるんです。人間は信頼できるって思える。希望みたいなものが、心の中にピカって燦然と輝いている感じがします。それは、出会えた方たちからいただいたものです。

 それから、沖縄は私にとって遠い場所だったのですけれど、友達のいる大切な島になりました。
 先日、信州沖縄塾で映画が上映されたときも、高江の記録のときは「ああ、これマーティーさんが撮ってるんだ!」って思ってましたし、あのゲート前で懸命に抵抗している住民の方たちの中に、高江で出会ったつぐさんや、げんさんや、暁さんがいると思うと、思わず掌を握りしめていました。
 それから辺野古の記録の一番最後のところで、宜野座映子さんが登場したんですね。明るい声で「みんなに辺野古に来てほしい」っておっしゃっていた映子さんですけど、そのお声を聞いたときは、嬉しくて懐かしくて飛びつきたいぐらいの気持ちになりました。
 私は、恩師であり、担当しているラジオ番組のディレクターである岩崎信子さんから、現場に立つことの重要性を常々教えられていますが、今回の旅は、その意味を実感した旅でもありました。
 私たちの旅を支えてくださった伊波さん、映子さんはじめ、皆様に心から感謝します。そして、一緒に行ってくださった文子さん、息子、ネルーダにも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

あと、時間ちょっとだけいただいて、まだあるんです。沖縄の人たちが今こんなふうに言っているよという言葉をメモしたんです。もったいないので最後にこれを読んでもいいですか?(会場から大きな拍手)

沖縄の人たちの声

 「沖縄戦は、3月26日に開始し、6月まで続きました。今でも雨が降ると、沖縄戦を思い出すという人は多いです。」
 「アメリカでビルが炎上した日、米軍の銃口は沖縄住民に向けられていました。沖縄戦と同じ。住民は守られないことを再現していました。」
 「先生、日米安全保障条約の中に私たちは入っていないのですか?」
 「大震災の状況をテレビで見て、沖縄戦を思い出している人は多いです。一生背負っていく人たちが、また無数に生まれたんだねって。」
 「米軍は、これだけ迷惑をかけていながら、あれだけしかしないのか。」
 「東北の人たちは、みんな沖縄に来てくれたらいい。米軍が撤退して、東北の人たちが来るようになればいい。」
 「沖縄は心を開いている人が多いので、自分も心を開いていると、つながることができます。」
 「つながっていきましょう!」

 以上で私のつたない報告を終わります。ありがとうございました。
 (会場から大拍手)

 (「信州沖縄塾連続講座報告書」掲載/「モラトリアム30号 夏草」掲載)