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インタビュー「私と仕事」

第12回 松本盲学校教諭 原 哲夫さん 2009・2

 今回は、長野県松本盲学校で英語と自立活動を教える全盲の教諭、原哲夫さんにインタビューしました。
 私たちが待ち合わせたのは、長野県庁の会議室。原さんは、松本市から盲導犬のエリンとバスで。私は東御市から、盲導犬のネルーダと電車で県庁へ行きました。私が原さんの響きのある落ち着いた声に耳を傾けている間、ベージュ色の小柄な二頭の盲導犬は、長机の下で、寄り添うようにして、静かに寝そべっていました。
 原さんは、1972年に、長野県内の中学校の社会科の教諭になりましたが、ベーチェット病を発病しました。視力が低下したため、28才の時に休職して療養し、大阪にある日本ライトハウス職業生活訓練センターで2年間、生活訓練を受けました。
 1980年の1月から3月にかけて、単身で、アメリカの視覚障害者の教育と福祉について視察研修。その年の4月から、長野県松本盲学校の教諭として復帰しました。現在60才。

里枝子
「原先生は、中学校で社会科を教えていた25才のときにベーチェット病を発病なさったのでしたね。失明は受け入れ難いことではなかったでしょうか?」
「大学病院へ行きましたら『これはベーチェット病だ。将来失明する可能性が大きい。』と言われて、その深刻さを感じました。治るんじゃないかという期待はあったわけですけれど、3年ほどたちますと、炎症をおこしたときには、かなり視力が落ち、文字など見難くなりました。そのうちに眼底出血をおこすようになって。療養のために休職した後半あたりでは、自分でも回復はしないだろうと徐々に思うようになって、別の道を考えるようになったんです。」
里枝子
「それで日本ライトハウスで、2年間の生活訓練を受けたわけですね。大阪にある日本ライトハウスを選んだのはどうしてですか?」
「3箇所ほど見学に行きましたが、日本ライトハウスでは、非常に印象的なことがあったんです。『君の目は、もう治りはしない。そうかといって、すぐに勉強とはいかないだろう。まず、自分で歩けるようになるとか、点字を読めるようになるとか、仮名タイプをするとか、日常生活の中でできるようにしておくと、都合のいいことは色々ある。とにかく、大阪へ遊びにくるつもりで来い。』そう言われました。私には、この『遊ぶつもりで来い』がすごく響きましてね。それまで気持ちは、どんどん沈んでいくばかりで、遊ぶなんて忘れていました。そういう中で、そう言われたことが大きなきっかけだったし、もうひとつ、『自分のことを知っている人が誰もいないところへ行くのはいいかもしれない』と、理由はその二つでしたね。また、その時に、私は、まだ教員をしていたものですから、『けっして今の段階で退職しないように』と、それをはっきり言われました。」
里枝子
「今では、失明を宣告されたときは、退職や転居をせずに、すぐにリハビリテーションに取り組むことが何より大事だと言われます。30年も前に、そのアドバイスをいただけたことは、実に貴重でしたね。それに、その日本ライトハウスで復職する望みを取り戻されたわけですよね。」
「そうです。当時、ちょうど私と入れ替わりに、大阪の中学校の音楽の先生が、復職されたんですよ。それが三宅勝先生といって、『全国視覚障害者教師の会』の会長を長年され、今、名誉会長をされている方です。また、もう一人、大阪の中学校で教員をしていた先生も、ちょうど私と一緒に訓練をしはじめたんです。そんなわけで、割合早い時期に、三宅先生の授業を見学に行かせてもらったりしました。」
里枝子
「いい出会いがあったのですね。では、大阪で訓練を受けながら、長野県で復職の道を開く働きかけをしたのですか?」
「大阪に行って半年ぐらいたった時に、上司である校長先生に手紙を書いたんです。罫線の浮き出た特殊な便箋に、手探りで、自分は今、こういう状況で、こういうことをしてる。できれば復職したいと書きました。そういうことを伝えながら、ライトハウスの方では、県教委と復職についての話し合いを進めてくれたんですね。何とかできないものかと考えてくださった先生方もいました。県教委の方から、盲学校はどうかということで話が進んでいったわけです。」
里枝子
「全盲になって最初の教員生活は、どんなふうでしたか?」
「自分では、盲学校で社会科を教えようということで行ったんですがね。学校には校務分掌というのがあって、4月の段階で、それぞれの職員がどんな仕事を担当するか、年間計画が入っているわけです。ところが、私は名前だけは入っていましたが、みんな空欄、空欄、空欄、空欄なんですよ。担当も学級もないし、教科も係も何にもないという状態で、これにはびっくりしましたね。ただ行って、給食を食べて、時間がきたら帰ってくる・・・」
里枝子
「えーっ!どうしてそんなことになったのですか?」
「当時の校長先生は『私は先生を採りたくなかったんだけど、教育委員会から押しつけられたんだ。』と露骨に言っていましたね。私は『招かざる教師』だったのです。」
里枝子
「当時は盲学校でも、見えない教師が普通教科を教える例は少なかったのですか?」
「長野県では例がなかったようです。理療科教員の場合は、筑波大学に教員養成課程がありますから、これは確立されていましたがね。もちろん授業をさせてほしいということを校長先生に、機会があるごとに言っていました。そうすると、これもできないのではないか、あれもできないのではないかと、ずいぶん指摘されました。また、『あなたが普通教科を担当すると、周りの先生方に迷惑がかかる。しかし、理療科は職業教育だから違う』と言われたことを覚えています。目の見えない教師には普通教科は持たせられないというのは、著しい偏見だったと思います。」
里枝子
「苦しかったでしょう・・・ その状況に、どうやって風穴を開けたのですか?」
「2年目も似たような状態でしたが、たまに中途失明で相談に来る人もいて、点字の指導に関わるようになっていました。その後、初めて授業をさせてもらう機会があって。3年目か、4年目くらいのときに、やっときちんとした授業を、限られた時間ですが、持つようになりました。」
里枝子
「原先生は、英語を教える資格を、通信教育で取得されたそうですね。」
「英語は話す、聴くという部分が大きな比重を占めますからね。最初に中学の教員に必要な単位をとって、次に高校の英語教員ができる単位まで増やしました。英語を教えはじめたのは、盲学校の教員になって5年目のことです。ようやくここまで来たかという気持ちでしたね。子供たちにテープを持たせて、読みや暗誦をテープに吹き込ませて、それを宿題に出して、点検することもしました。もちろんノートもやりました。」
里枝子
「文書処理などはパソコンでなさるのですか?」
「たいがいそうです。私が盲学校に復職して数年後に、点字ワープロが使えるようになりました。それがどんどん進歩して、より使いやすい、より普通の人たちと共用できるものに変ってきたことは、大きかったと思います。たとえば担任している生徒の通知表を整えるにも、今は、各教科の先生から、電子データをいただいて、私の所では、そのデータを切り離したり、貼り付けたりする作業だけです。データでいただければ、音声化ソフトが画面を読み上げるので、書かれている内容もわかりますしね。視覚障害のある教師にとって、パソコンの進歩は、革命的な役割を果たしていると思います。」
里枝子
「生徒さんたちとは、どんな関わりをしていますか?」
「生徒に協力してもらいながら授業を進めています。たとえば、視力が残っている子のために黒板に字を書くわけですが、『先生、字が重なってるよ』とか、『もうちょっと右の方から書いた方がいいよ』とか、伝えてくれます。教員だけが完璧にできてやればいいってものじゃなくて、生徒が持っている力を借りながらやるもんだなあということを、見えない中で授業をするようになって、私は感じています。」
里枝子
「まさに保護ではない、自立支援ですね。生徒だけでなく、原先生と出会った先生方が、視覚障害への理解を深めるということも多いのではないでしょうか。私は県内各地の学校へお話に行きますが、懐かしそうに原先生のお話をされる先生方に、時々出会うんですよ。」
「そうですか。職場では、皆さん、ごく普通によくやってくれます。そりゃあもう、コピーから始まって、言ったらきりがないくらいです。私は高校の教師たちの会合などにも出かける機会があるんですがね。行っていると、ごく当然みたいになって、案内などもしてもらえますし、確かにひとつの理解につながっているのかなと感じることはあります。」
里枝子
「原先生は、復職した当初は、たいへんな忍耐を強いられたと思いますが、その後の長い年月、多くの方と、隔てのない人間関係を紡いでこられたのですね。」
「今私が仕事をやりやすくできるのは、周りのチームワークがあって、可能になっていると思うんです。もちろんやってもらうばかりじゃなくて、私が経験として身につけてきたことを伝えることによって、『ああ、それはわからなかった』ということを私が与えていることもあるみたいだし。形はちがうかもしれないけれど、与えたり、与えられたりということは、必ずあるはずなんです。ひとつの仕事をしている小さなチームの中で、障害のある人が生き生きできるのは、その周りに非常にいい人間関係や、取り巻く人たちがいてできてるのだと思いますね。」
里枝子
「厳しい時代ですが、障害のある若者たちに、どんなことを大事にしていってほしいとおもいますか?」
「こうしたいということがあったら、必要な力をつけて出ていくということは、大変大事だと思うけれど、恐れないことですよ。チャレンジしてほしい。どう工夫したらいいかとか、どういう知識や技術が更に必要かということは、自分の実践している経験そのものが教えてくれます。それから、世の中は、誰もが余裕がなくて厳しい状況にあると思いますが、必ず温かい気持ちで見ていてくれる人もいるものです。だから、そんなに恐れることはないと思います。」

原さんは、今年の3月で定年退職されます。36年に渡る教員生活の重みと、誠実なお人柄を感じるお話でした。心から感謝と、労いの言葉を申し上げたいと思います。

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