里枝子のエッセイ
越後瞽女唄探求の旅 九の段 映画「瞽女さの春」で、サトさあになりました
作成年月日 2024年3月4日
○はじめに
私は、瞽女歌探求の旅を始めて10年になりました。
毎年、「紫苑コンサート」にお越しくださる恩師から、先日、こんなメッセージをいただきました。
「里枝子さんも「瞽女唄」を始められて10年になるのですね。昨年聞かせてもらってゆったりと落ち着いて唄っていらっしゃる様子に「あぁ もう初心者ではないのだなぁ~」と 感心やら安心やらでしみじみしたのでしたが、一緒に演奏できる妹弟子ができたのですね(拍手)
もちろん 瞽女さんは一生唄い続けるのですから、先はまだまだ長く、精進の道も更に厳しいのでしょうが、里枝子さんの勇往邁進の姿は本当に素敵ですよ。」
私は、このメッセージを読ませていただいて、思わず笑顔になって、遠くにおられる恩師に向かって頭を下げました。
私は、瞽女唄を習いはじめた翌年から、ご依頼をいただけば喜んで演奏に行っていましたので、皆様には、長いこと辛抱強く見守っていただいていたのだなあと、改めて感謝の気持ちです。10年続けたことによって、今、一緒に演奏できる姉妹弟子たちが居てくれることは、本当にうれしく心強いです。
「勇往邁進」という言葉も、さっそくネットの国語辞典で調べてみましたら、「恐れることなく、自分の目的・目標に向かって、ひたすら前進すること」と書いてありました。これを読んで、私は、また笑顔になりました。
この「恐れ知らず」が、私の最大の問題で、母には、ずっと心配をかけ通しでした。それでも、「人々と瞽女唄を分かちあいたい」と、目標がはっきりした今は、この無鉄砲ぶりが、やっと強味になってきたのかもしれません。
さて、今年の2月初旬に、私は、瞽女唄の萱森直子師匠とともに、「瞽女さの春」という映画に出演しました。
この映画は、盲目の旅芸人であった瞽女さんたちを泊めていた高田の瞽女宿の6歳の少女、美代ちゃんと、瞽女のサトさあの心の交流を描いた小さな物語です。萱森師匠は瞽女の親方になり、私は、瞽女のサトさあになりました。
この映画を制作したのは、増山麗奈監督です。麗奈監督のお母様のご実家は、瞽女宿をしていたので、これは、お母様が小さい頃に、実際に体験した大切な思い出です。そのご体験が、「瞽女さの春」という美しい絵本になっていまして、その絵本を、娘の増山麗奈監督が映画化しました。
映画の撮影は、厳しい寒さの中、新潟県の長岡市にある国の重要文化財の長谷川邸でおこなわれました。
私は、そのときの感動を伝えたくて手紙にしました。その手紙をロサンゼルスに住む息子が英訳し、友人が添削してくれました。
そして、昨日、3月3日にハリウッドの「LandMark Santa Monica」で映画が初上映された後のスピーチの時間に、息子がこの手紙を代読してくれました。
実際には、代読の時間は2分間だったため、手紙は半分に集約して読んだそうですが、心をこめて書いた文章でしたので、ここに遺します。
○「瞽女さの春」を観てくださったあなたへ
皆様、「瞽女さの春」を観てくださって、ありがとうございました。
瞽女のさとさあ役をした広沢里枝子です。私は、全盲の瞽女唄うたいです。皆様への手紙をロサンジェルスに住む息子に託します。
私は、この映画の台本を点字で読んだとき、「ああ、この物語の中に入ってみたいなあ」と思いました。そう思ったことが、この仕事をお引き受けした一番の理由でした。そして、この映画で瞽女のさとさあの役をしたことで、私は本当にこの物語の中に体ごと入れたように感じています。
私は瞽女唄に情熱を注いでいます。ですが現代人なので、当時の瞽女の体験や気持は、想像することしか出来ませんでした。
そんな私でしたから、今回、初めて黒髪を銀杏返し(いちょうがえし)に結ってもらい、瞽女姿になって実際に越後の早春の身に沁みる寒さの中で、瞽女に扮した体験は、一つ一つ驚きをもって私の心身に刻まれました。
さとさあの私が、「冬は手がかじかんで感覚がなくなるまで稽古したんだわね」と話したとき、瞽女宿の孫娘の美代ちゃんは、私の手の冷たかったことを思いやって小さな手で、私の手を優しく摩ってくれました。その瞬間私は、映画のワンシーンだということを忘れて、思わず泣いてしまいました。そのとき溢れた涙と、美代ちゃんの細い指の感触が清らかな流れのように胸に沁みて、私の苦労まで癒してくれたようでした。美代ちゃんと仲良しになって心を通わせたさとさあも、こんな気持だったのだろうと感じました。
また、撮影の中で、とりわけ鮮やかに心に残ったのは、門付け(かどづけ)の場面と、村の衆が集まったお座敷での瞽女唄演奏の場面です。
門付けの場面では、奇跡のように夕陽が輝いて、民家の軒下で三味線を打ち鳴らしながら唄う私たち瞽女3人を照らしてくれました。古民家の屋根からは、雪解け水がぽたりぽたりと落ちて、着物を濡らし、まさに越後の早春の門付けでした。
お座敷の場面では、瞽女の親方に扮した萱森師匠(かやもりししょう)の力強い「山椒大夫(さんしょうだゆう)」の瞽女唄に聴き入りました。この時の師匠の演奏が、この映画に残ったことは、非常に貴重でした。
それから、私とお顔がそっくりという、5才のほのかちゃんに、さとさあの子供時代を演じてもらえたことも、私にとっては、一瞬昔の自分に会えたような不思議な経験でした。私も7才の時に失明を宣告されてからは、私の将来を案じてくれた母から「あなたはこれしか生きる道がないのだから」と言い聞かされて、毎日のように三味線のお稽古に通っていました。ですから、さとさあが「おれには、これしか生きる術がないすけ、必死だったわね」と言う気持が、私なりにわかるのです。こんなふうにして私は、この映画の撮影中に、思いがけず時代を遡るとともに、人生を遡るような不思議な感覚を味わいました。
私をこの物語の中に招き入れてくださった麗奈監督と皆様に感謝しております。この映画が国境を越えて、あなたの心に響きますようにと願っています。
To the audience of "Spring of Goze",
Thank you, everyone, for watching "Spring of Goze."
My name is Rieko Hirosawa, who played the role of Sato-sa, the goze. I am a blind goze
singer. I am entrusting this letter to my son who lives in Los Angeles.
When I read the script of this movie in Braille, I thought, "Oh, I want to be a part of this
story." This strong desire was the main reason I accepted the oIer. And by playing the role
of Sato-sa in the movie, I felt like I was truly able to immerse myself in this story.
I have a deep passion for goze songs. Even though, it was quite diIicult to understand the
goze’s life and feelings of the era, as I am living in the modern age. I could only imagine.
However, when I dressed up as a goze costume with black hair set in the traditional
"ichogaeshi" style for the first time in my life, then felt the biting cold of early spring in
Echigo, each moment as a goze became a surprising and memorable experience for me.
When my character, Sato-sa, said, "In winter, I practiced until my hands were numb from
the cold," Miyo, the granddaughter of the goze host, sympathetically rubbed my cold hands
with her small hands. At that moment, I forgot it was a scene from a movie and couldn't
help but cry. The tears that flowed and the touch of Miyo's delicate fingers turned into a
pure stream entering my heart, healing my hardships. I believe that Sato-sa, who became
close friends with Miyo, felt the same way.
Additionally, the scenes that stood out most vividly in my memory were the "kadozuke"
door-to-door performance and the goze song performance in the village gathering.
In the "kadozuke" scene, the sunset miraculously illuminated us three goze as we sang and
played the shamisen under the eaves of a house. The melting snow dripped from the roof of
the old house, wetting our kimonos, perfectly capturing the early spring of Echigo.
In the gathering scene, I was deeply moved by the powerful goze song "Sansho Dayu"
performed by Master Kayamori, who played the role of the goze leader. Despite her illness,
she gathered all her energy to perform, which made her song even more impactful and
touching. It was incredibly precious that her performance was captured in this movie.
Furthermore, it was a mysterious moment to have 5-year-old Honoka, who looks just like
me, play the role of young Sato-sa. I felt like I met my younger self. Until I was five, I was a
daddy's girl, singing loudly and crying often. However, after being diagnosed with expected
blindness at seven, my mother was worried about my future and told me, "This is the only
way for you to live" So, I practiced the shamisen every day. Therefore, I understand Sato-
sa's feeling of "This is the only way for me to live, so I struggled desperately. " Through this
movie's filming, I happened to have a sense of traveling back in time and revisiting my life.
I am deeply grateful to Director Reina and everyone who invited me into this story. I hope
this movie touches your heart across borders.
Thank you for your attention.