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越後瞽女唄(ごぜうた)探求の旅

【特別掲載】 下重暁子 − 風のゆくえ(11) 瞽女に惹かれて

信濃毎日新聞(2017年2月5日掲載)

 鈍色の日本海を背に盲目の女たちが行く…。手引きと呼ばれる案内役は微かに見えている。その肩に手をかけ、次の肩に、また次の肩に手をかけ、三味線を背負った3、4人の旅芸人は、瞽女と呼ばれた。
 斎藤真一の哀愁に満ちた絵の数々や、水上勉の原作で映画化された「はなれ瞽女おりん」。男性の目にはもの悲しく、はかなげで創作意欲をそそったに違いない。
 秋田県立美術館で斎藤真一の瞽女の絵に出会い、久しぶりに拙著「鋼の女―最後の瞽女・小林ハル」(集英社文庫)をひもといた。
 「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修業」と自らに言いきかせつつ9歳の年から親方に連れられ、師匠や姉弟子のいじめに耐え、旅先の人々に物語や唄を語り継いだ小林ハル。新潟県の高田と長岡の二つの組織のうち長岡に属する。戒律は厳しく、男ができたら破門(「はなれ瞽女」とは追放された女のことである)。一言一句漏らさず耳で聴き憶え伝承する芸の修業。
 私は、晩年を新潟県黒川村(現・胎内市)の「胎内やすらぎの家」で過ごす小林ハルさんに出会って、風雨や雪の日も通いつめるほど、その唄と人生、品格のある姿勢に惚れ込んだ。
 料理もすれば、反物も縫う。自立した見事な生活者で、感傷など微塵も入る余地はない。地の底を這う暮らしながら、突きぬけた明るさ…。鍛えられるほど光を増す鋼の女(ひと)は105歳の生を全うした。

 東御市で瞽女唄に惹かれて習う女がいると聞いた。雪のちらつく日、細い坂道を上って会いに行った。広沢里枝子…信越放送ラジオで「里枝子の窓」を長年放送する彼女には偶然、以前にも会っていた。民放連の審査で入選したその番組を選んだ私は、盲導犬を連れた全盲なのに目力の強い女性に声をかけた。そして、当時101歳だったハルさんに会いに行ったらとすすめたそうだ。
 彼女はハルさんの唄も聴き、番組でも放送したという。なんという奇縁!
 将来失明するという難病になった里枝子さんに、母は三味線と長唄で身を立てるようにと小学校4年から遠い道のりを、師匠のもとに通わせた。母も娘も命がけだった。
 ハルさんの母も座敷に閉じ込められていた娘に、瞽女の親方に頼んで唄を習わせ、旅に出す。
 里枝子さんはその後両親のもとを離れ、いじめに遭いながら普通校に通い、福祉の仕事をするため長野大学に進んだ。そこで出会った男性と大反対を押し切って結婚。しかし出産と同時に微かな視力も失う。
 そんな折のハルさんとの出会いは、彼女の人生を変えた。

「唄を一声聞いて雷に打たれた…突然なぐられたようで、目の前にわーっと景色が広がったんです」
 その時運命は決まった。瞽女唄を唄っていくと。私も初めてハルさんの声を聞いた時を思い出した。真っすぐに心に突きささり、障子がビリビリと震えた気がした。山も海も見え、色彩すら感じた。
 里枝子さんに三味線の基礎があったのも役立った。萱森直子さんというハルさんの晴眼の弟子に新潟で教えを受け、瞽女唄に懸けると決めた。
 彼女にそう思わせたのは何か。目は見えなくても経済的にも精神的にも自立した普通の女として生きたい。それこそ私とハルさんをつなぐ一本の糸でもあった。
 「未熟ですが聞いてください」
 里枝子さんが語りはじめたのは「葛の葉子別れ」。私がハルさんから最初に聴いた曲だ。
 一声聞いて、私はハルさんに感じたものと同じ生きる勁さを知った。
 「蝶々とんぼも殺すなよ…行灯障子もなめ切るな…どおりじゃ狐の子だものと」。さわりになって思わず涙ぐんだ。
 窓の外の雪山が微かに朱に染まり夕暮れが近づいていた。 (了)

※掲載にあたり、作家の下重暁子さんにご許可をいただいています。