音楽について
テーマ曲
土屋竜一
里枝子が窓を開けると、緑と花々でいっぱいの世界が広がっていく……。爽やかで優しげなこのテーマ曲は、車いすの音楽家・土屋竜一が番組のために書き下ろしたオリジナル・スコアです。
「里枝子の窓」オープニング・テーマ (MP3ファイル)
街に出よう、キュリー
きれいな黒毛のキュリーは広沢里枝子の初代のアイパートナーでしたが、1996年に引退、その後天寿を全うし他界しました。キュリーがまだ現役の1990年に、広沢里枝子が書き下ろした詞に土屋竜一が作曲した歌で、この作品は1991年の第16回わたぼうし音楽祭で大賞を受賞しました。土屋竜一と藤巻敬子のデュエットバージョンで。
街に出よう、キュリー (MP3ファイル)
ドロシーのテーマ
キュリー引退にともなって登場したドロシーのために、里枝子&竜一コンビが放った1996年作の歌です。オリジナル録音では牧野真賢少年と広沢里枝子がのびのびと歌って盛り上げました。ここでは下平真弓バージョンが聴けます。ドロシーも今は天国にいます。
ドロシーのテーマ (MP3ファイル)
光のほうへ~ネルーダとふたりで
3代目の盲導犬ネルーダのために、里枝子&竜一コンビが20年ぶりに作った歌です。下平真弓バージョンでお聴きください。ドロシーも今は天国にいます。
光のほうへ~ネルーダとふたりで (MP3ファイル)
土屋竜一さんへの追悼文
岩崎信子
土屋竜一さん。あなたは、音楽家として、著作家として、そして何よりも素敵な家族の父親として、見事に生き切りましたね。初めてお会いしたのは、19歳の長野西高等学校通信生。全国高校生体験発表作文コンクールで最優秀賞を受賞した喜びの声をと、デンスケ(当時の録音機)を担いで録音に駆けつけました。
炬燵に当たって待っていて下さった竜一さん。白い指が、炬燵板をたたいているのを見て、「照れなくてもいいわよ」と軽口を叩いた私は,はっとしました。進行性筋ジストロフィーの症状が足や手にも現れていたのです。
「ごめんなさい!」と心で詫びながら、すぐにインタビュー。声は少しくぐもってはいましたが、明快な話しぶり。終わって直ぐに、彼はおずおずと語りだしました。パソコンを使いながら作曲の勉強を始めていること、曲も沢山出来ていること、「僕の曲をラジオで流していただけませんか?」というのです。
上田放送局に転勤したばかり、あたらしい番組を次々に立ち上げていた私は、彼の申し出を『イケる!」とその場で受け入れました。但し、毎月2曲の新曲を!という注文をつけました。日曜日のお昼時、「NOWNOWサンデー」という番組の仲間入りをしてもらうことにしました。
車椅子のシンガーソングライター土屋竜一さんの活動はラジオを通して広がって行きました。小柄なお母さんが車に乗せたり、負ぶったりして、上田放送局のスタジオや、公開会場のほていやさんまで通って下さいました。
彼の「出会いは宝物」は多くの人に愛されてきました。ところが病気が進み、人工呼吸器を装着しなければならなくなりました。
「声を失う!」ことに悩んでいた彼に、「ねえ、くよくよしても始まらない。少し書いてみたら。あなたから葉書をたくさんもらっているけれど、何か心に響くのよ」といったことさえ忘れたころに彼から手紙が届きました。
「あなたには書く力がある。折々に書き留めておいたら?」といわれて書き留めておいたエッセイが「新風舎出版賞」を得て出版されることになりました。「竜ちゃんの本が出来たら、わたしに朗読させてね!」を励みにエッセイを書き続けてきました。歌や語りで自分を表現することが難しくなった僕に、たった一つの路を教えてくれた・・とあるのにびっくりしました。
その後の彼は、「神様からの贈り物」など次々に出版。2児の父親ともなり、初めての児童書「ぼくにできること」を出版。
2018年4月には出版記念「そよ風の朗読会」を盛大に開きました。地元「佐久平交流センター」を満席にした「そよ風の朗読会」
彼を支えてきた歌い手やボランテイアらが生き生きと会場を盛り上げていました。私は彼の希望で「雨の日はうれしい」と「弟を探せ」の2つの作品をよませていただきました。最後に竜一さん。スピーキングバルブを装着し、きれぎれに感謝を述べ、次には60歳の記念コンサートを開きたい」と意欲を語ったが、この5月、帰らぬ人となってしまわれた。
彼が最後に挑戦したのは俳句だ。矢島渚男主宰の「梟」でも人気があった。
― あらゆるもの捨てて今年の夏になる ―
が絶句である。俳名は「虹魚」天国に召された竜ちゃん、混沌としたこの世界に虹の橋を架けてくれるのではと願っている。