ここから本文です。

企画詳細

平成13年日本民間放送連盟賞ラジオ放送活動部門(関東甲信越静岡地区参加)
信越放送 里枝子の窓 〜盲導犬と共に生きる〜

窓 私の部屋の小さな窓
木の枠に囲まれた ちっぽけな世界に見えるかしら
だけど
窓を開ければ 遥かな世界 宇宙までつづいている
鳴き交わす小鳥たち
とんでとんで 空の広さを教えておくれ
吹きわたる 信濃の風よ 駆けめぐって 
大地のうたを きかせておくれ
あなたと一緒に 草の実とばそ
「里枝子の窓」から

インデックス

企画意図

 目の見えない一人の主婦が、 パーソナリティとしてありのままの自分を、 ラジオで語りはじめたのは 11年前のことでした。 その冒険が 多くの人たちにさまざまなことを考えさせ、 熱い共感をひろげてゆく幕開けでした。
 1991年4月、SBC上田放送局制作の東信ローカル番組としてスタートした『里枝子の窓』。番組は、盲導犬のいる風景をありのままに紹介していくことで、障害者問題や介護問題を、私たちの日常生活の中に位置付け捉えていこう、とのコンセプトのもとに制作されました。このため、パーソナリティには小県郡東部町に住む視覚障害を持つ主婦、広沢里枝子さんを起用。広沢さんは、自らも障害を持つ人の目線で、ふだんの暮らしや子育て、街づくり活動などをイキイキと語っていきました。
 けれんみなく、自分がたどっている障害者としての道や、周囲の人たちとのふれあい、そして生きることの喜びを、明るく、さわやかに話す里枝子さんの語りは、障害者は暗いといった間違った概念を払拭し、これまで障害に関心の薄かった人々の間にも大きな反響を呼んで、全県放送へと広がり、回を重ねるたびに、番組そのものが「語り手と聴取者」「障害者と健常者」のバリアフリーの役割を果たしていくことにもなりました。
 『里枝子の窓』には、今日まで11年間にさまざまな障害者の方々がゲストとして出演しました。どうしても遠慮がちになり、本音を語らぬゲストたちも、同じ立場にある里枝子さんのトークの世界に、素直に心を開き、のびやかに喜びや苦しみを語ってくれました。
>  『里枝子の窓』は、障害者はもちろん、健常者への生きる応援メッセージとなったばかりか、放送を通じて、広沢里枝子さん自身の自立にも大きな意味を持ったのです。

ページの先頭へ

パーソナリティ

 長野県東御市で夫の真一さん、3代目の盲導犬ネルーダと共に毎日を送る傍ら、ラジオ出演や講演会、街づくり活動、障害をもつ仲間の自立支援活動などに、積極的に参加しています。
 広沢里枝子さんは1959年、静岡県沼津市生まれ。 小学1年の時、眼科検診がきっかけとなって進行性の網膜色素変性症と診断されました。弱視がしだいに進み、長野大学4年のころには文字も読み取れず、視野も狭くなり歩行も困難になったそうです。現在の視力は光を感じられる程度。
 視力がしだいに失われてゆく苦痛と不安を感じながら、里枝子さんは「将来、障害者のために役に立ちたい」という思いから、郷里の沼津市を離れ、長野大学に進学し福祉を学びました。そこで「学内障害者の要求を実現する会」に入り、その運動を支援していた一人の男子学生に出会いました。それが現在のご主人、真一さんです。 しかし、目の見えない主婦の仕事は悪戦苦闘の連続でした。シチューの鍋を引っくり返し、座り込んで泣いたこともあったそうです。刻みものは左の指で測りながら、一定の大きさに切ることを覚えました。
 体重25キロ、ビロードのような黒毛。道案内と子守りが得意という、メスの盲導犬・キュリーが里枝子さんの家にやってきたのは昭和60年のことでした。キュリーが来てから、里枝子さんの行動範囲も格段に広がりました。そんな時、SBC上田放送局制作の番組に出演する話が生まれました。
 目の見えないパーソナリティが障害者と健常者の壁を崩した里枝子さんは、月に一度、東御市の高台にある自宅から上田市の放送局まで、三頭目の盲導犬ネルーダといっしょにやって来ます。
 番組は、里枝子さんの日常を感じたままに紹介するトークを中心に、同じように障害を持ち、一生懸命に生きている多くのゲストを招いての対談などを織り交ぜながら、イキイキと彼女たちの生きざまを伝えていきます。
 気負うことなく、淡々と自らの日々を語る里枝子さんのおしゃべりに、ゲストたちも、飾り気なく障害者としての本音や苦悩、生きる喜びを語ってくれました。ふだんの生活をあたりまえと感じている健常者が、衝撃を受けるたくさんの出来事が次々と紹介されてゆくと、反響も日増しに高まっていき、「泣かされました。泣きました。里枝子さんの本気さにうたれました」「この番組を通して多くの出会いがありました」「あんなに瞳のきれいな女性を見たことがありませんでした」などの声が続々と届けられました。
 障害者が参加して共に創りだす月一回の番組は、その後全県に広がり、番組自体が、「人々の心の窓」になりつつあります。

ページの先頭へ

思い 広沢里枝子(談)

 「里枝子の窓」は、私にとって障害者も健常者も交われる 幸せな仕事です。
 自分にとって大きな転機となったのは、盲導犬を持ったこと。子供が生後10か月の時、当時、和歌山県田辺市にあった日本ライトハウスの行動訓練所に一ヶ月入ったんです。子供と離れたことで自分を客観的にも見れ、帰ってきたら子供を連れて自然の中も人の中もどんどん出ていけるようになりましたね。
 その訓練のとき、子供への絵本の読み聞かせを教えてもらったのも大きかった。帰ってから点訳絵本を読むと、子供は泣かないんですよ。そのうちに子供の口からこぼれ出た言葉を点字で書き留めていたんです。それを友人が、手書きの文集「あきとまさきのお話のアルバム」にしてくれて、地域のボランティアの方たちの協力も得て第4集まで作ったんです。お世話になった人たちに、そして子供の通う幼稚園のお母さんたちにも見てもらいました。文集を通して、私のことを内側から見てもらえたんだと思うんですよ。自分から差し出した手になったというか。最終的には3000冊ぐらい作りましたね。
 この文集を見たSBC(信越放送)の岩崎信子ディレクターから、「おかずになる番組はたくさんあっても、主食になるものは少ない。一緒に、心の主食になる番組を作りませんか」と誘われたんです。それが「里枝子の窓」(毎月最終土曜日の4時から4時半)。メーンはトークで、地域で地道な活動をしている方とか、自立生活をしている障害者の方たちのお話を伺っています。番組は、障害者も健常者も両方が交われる窓口でありたいということと、中央から地方へという発信の流れの中で、長野県の東信地区に根を下ろし発信していくのをスタンスにしています。
 登場される方の生きるパワーに触れられるような話が聞けたらと思うんです。いろんな分野の方のお話が聞け、時代の動きにも触れられ、幸せな仕事をしていると思いますね。
 ラジオから飛び出して学校や地域で、体験談とか民話や童話を語る活動も広げています。体験談の中では、「諦めるのは自分への差別だよ」って語りかけています。振り返ると、私は視覚障害について余りにも知らずに、差別観を持っていて、それで自分を苦しめていた。自分を肯定したときに自分を大切にできると思うんですよ。それに、健常の子たちも同じような潜在的な不安を抱えていることにも気づいたんですね。
 障害があっても、こうやって生きられるよっていうのを見ると、安心するんじゃないかなあ。自分の障害ですか? ……、人生をよじ登っていく足掛かりみたいなものじゃないかしら。私はクリスチャンではないんですが、宗教心という意味では、深いところには信仰があると思いますね。高校のとき、後輩がわたしのために祈ってくれたように、大きな意味で与えられた人生であって、導かれているという安心感みたいなものが心のどこかにありますよね。だから、今与えられたことを一生懸命やって、今出会った人を大切にしていけば、私のするべきことが与えられるって信じていますね。安心感って人によって与えられているかも知れませんね。

ページの先頭へ

番組内容

 盲導犬キュリーと共に街に飛び出したり、 日本各地や海外の国々を旅したり、 スタジオでゲストたちとトークの輪をひろげたり……。 深みのある言葉で、感性ゆたかに綴り続けた里枝子のヒストリー。

1992年8月放送 小諸高校の講演会

 視力を失ったハンディに立ち向かって、ハツラツと地域活動にも参加している里枝子さんは、さまざまな施設や学校で自らの体験を飾り気なく語る講演も数多く行っています。そうした中でも、特に反響の大きかった小諸高校では、社会人講師活用事業の一環としての講演会が回を重ねており、訪れるたびに、高校生たちの「障害者」への関心と理解が深まっています。
 番組では、里枝子さんのけれんみのない口調で語られる自らの半生や障害をもって生きることの現実をテーマにした講演の内容と、高校生たちとの活発な質疑応答の模様を感動的に伝えています。

生徒女
自分にできないことがあって、腹が立ったことはありますか?
里枝子
う〜ん、ナイス・クエスチョンねぇ(笑)。ありますね、それが一番つらいですね。障害を持って、たいへんだなあって思ったことは、まず、自分に耐えることですね。自分のぺースとか自分のできることというのは、限られてきますよね。たとえば、お料理何かをしていてもイライラしてくるんですよ。足なんかガタガタ震えてきて、どうして、このくらいのことができなくなっちゃったんだろうという悲しみみたいなものが、最初のうちはありました。ゆっくりしかできないし、上手にできないし、できることは少ないし、という自分を受け入れていく、そういう自分と付き合っていくということが、障害を超えていくための最初だったかなって思います。でも、自分がいっぱいできないことがあるから、子供ができなかったり、遅かったりしても腹が、立たないんですよ。すごく、分かるって思うの。だから、子供に対しても同じ気持ちになれたっていうのが、障害を持って良かったって思うことなんですよね。
生徒男
いままで生きて来て、一番うれしかったことは何ですか?
里枝子
いっぱいあります。今まで一番泣けたのは、結婚した時と子供が生まれた時でうれしくて泣けました。それともう一つ、どうしても忘れられないのは、わたしが小学校に入った頃「将来、目が見えなくなるよ」って両親から教えてもらいました。だけど、ずっと自分の中で悩んできて、誰にも相談できなかったんです。でも、ある時初めて、一人の女の子に相談できたんです。その子はわたしのために何もできないって思ったみたい。でも、近くにお御堂という所があって、その子は半年間毎日そこに行って、わたしのためにずっと祈っていてくださったの。わたしは知らなくて、ずっと後になって他の人からそれを聞いた時、涙が止まらなかった。うれしくって。そんなにうれしくて涙が止まらなかったのは、生まれて初めての経験でした。
生徒男
もし、自分が目が見えなくなったら、たぶん、生きていく気がしなくなるんじゃないかなって考えて、強いなって思いました。
里枝子
わたしも目が見えていた頃は、障害を持っている人は強いなあって思っていました。でも、人間って、そんなに弱くないですよ。その場にいったら、やっぱり生きていこうとする。だから、大丈夫!って思った。みんなもそうです。手がなければ足を使うとか、目が見えなければ耳を使うぞとか、最後にはそうやって生きていくものみたい、人間って。だから、大丈夫だと思います。みんなも。

 … 講演が終わると、里枝子さんのもとに「頑張ってください」と握手を求める高校生たちが殺到。里枝子さん自身も逆に高校生の熱い励ましに目をうるませる場面もありました。

『里枝子の窓』主な放送内容のご紹介

1991年(平成3年)
【5月】 小林好子さんの点字のお便り/「ハイジ」〜あきとまさきのお話のアルバムから〜
【6月】 「小鳥になって大空へ」〜あきとまさきのお話のアルバムから〜/触る図艦「鳥1・庭や公園の小鳥」福沢範一郎さんへのインタビュー
【7月】 「盲導犬と旅をして」三好英雄さん(視覚障害をもちながらペンション経営)/「ハーネス」〜あきとまさきのお話のアルバムから〜
【8月】 「暮らしに色をとりもどすために」 宮島任一さん(色を声で教えるカラーメイト開発)
【9月】 「わたぽうし音楽祭の報告」
【10月】 朗読「一年二組は魔法のクラス」岩下郁子著
【11月】 「盲導犬と街に暮らす」福沢美和さんと対談/「全紀、行方不明」〜あきとまさきのお話のアルバムから〜
【12月】 「楽しいコーラス」 山本道子さん(視覚障害)、内藤生子さん(ボランティア)

1992年(平成4年)
【4月】 「障害者が街をリハビリする」 島崎由美子さん(脳性マヒによる重度の障害をもつ) 
【5月】 「結び合うヒューマンネット」 池田純さん(長野県リハビリテーションセンター職員)
【6月】 「アメリカの自立生活支援」 来日したタッド・グロウブスさんを取材
【7月】 「絵本と子ども」斉藤篤男さん/絵本「みたみた、ほんとのクリスマス」〜あきとまさきのお話のアルバムから〜
【8月】 「障害をもっても生きられる」 小諸高校の講演を取材
【9月】 「JR駅の旅行介護について」上田駅長・日野正さんに聞く/「沼津旅行レポート」

1993年(平成5年)
「街に出ようキュリー」里枝子と盲導犬の出会い旅60分のスペシャル番組として放送

1994年(平成6年)
【3月】 「ジャパンパラリンピック」小海殊一さんにインタビュー/ 「バークレーの旅から」小林良子さん
【4月】 「ヤングボランティアクラブ」坂口平さん・武田さん

1995年(平成7年)
【5月】 「養子縁組をした遺児の日本国籍取得まで」 ロバータ・リースさんご夫妻を御代田町に訪ねて
【8月】 「あれから100日・視覚障害者が語る阪神大震災」楠の木グループ/里枝子さん朗読「小石投げの名人タオカム」/
【9月】 公開録音「盲導犬キュリーとわたし」軽井沢ショッピングプラザにて
【12月】 語り「子ウサギましろのお話」佐々木たづ

1996年(平成8年)
【7月】 スリランカから真田町に嫁いだ中村雪さんと「子育て論」
【8月】 「目の見えない人では全国初の健康運動指導士取得」北村まゆみさん/「盲導犬飼育奉仕者」志村澄也・寿美子さんご夫妻を軽井沢の別荘に訪ねて
【11月】 里枝子さんの語り「穴の話」披露(第5回わたぼうし語りベコンクールで優勝)/「ドロシーのテーマを作曲して」土屋竜一さん

1997年(平成9年)
【10月】 「バークレーの旅から帰って」丸山正子さん、小林良子さんと語る

1998年(平成10年)
【3月】 パラリンピック「みんな一緒に大冒険」白馬取材
【9月】 「サックスを演奏しながら音楽療法」 西巻靖和さんと語る
【10月】 「長野大学・更級そば同好会訪問」
【11月】 「宇宙から届く電波のサイン」 野辺山宇宙電波観測所・坂本彰弘さん

1999年(平成11年)
【5月】 「望月町馬事公園へ取材」原口俊彦さんに聞く
【6月】 「国際マイムフェスティバル」染谷丘高等学校演劇班・韓国公演を語る
【7月】 「遠野の語りべに出会って」アゲハチョウのおじさん・矢島光男さん (二重障害をもちながら自宅でアゲハチョウを飼育。地元小学校でアゲハチョウ 誕生の授業)
【8月】 「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」塚越加枝さん
【9月】 「朗読奉仕者」佐藤かよ子さん/自立生活支援センターホームページのお知らせ
【10月】 「東部町ガイドヘルバー制度の紹介・保護司の活動」伊藤いつ子さんと対談
【11月】 「手で触る美術館」東小学校の子どもたち/「結婚おめでとう!夫の作るオムレツ」山下淳一・京子さんご夫妻
【12月】 エッセイ集「出会いは宝物」を出版した土屋竜一さん

2000年(平成12年)
【1月】 「笑顔で迎えるふれあい喫茶・ポスト」店長・石野裕子さん (脳性小児マヒによる重度障害をもつ)
【2月】 「発達心理相談員」芹沢文子さん
【3月】 「その後のキュリー〜引退した老盲導犬を引き取って〜」佐藤英吉さん
【4月28日】 「音あそび(大長芳枝さんより)」インコたち“里枝子の窓かけてよ”の声/「望月町馬事公苑専門指導員」原口俊彦さんとゆらぎ(ゆう子)さん/子どもたちと馬とのふれあいから生まれたCD「パカパカ」
【5月27日】「青葉ちゃん誕生のニュース」山下淳一さん・京子さん(脳性小児マヒの障害を持つ)/「福祉ショップこぶしII訪問」(川辺町に移転・再出発。障害者と地域を結ぶ拠点と して) 店長代理・小林健一さん
【6月24日】「ともだちの輪・仲間との情報交換」山崎絢也さん(膠原病の治療のためステロイド大量投与により22歳で大腿骨壊死)
【7月29日】 「ドロシー、盲導犬訓練所に一時預かり」/「ヒューマンネットって何?」ヒューマンネットながの理事長・島崎潔さん(脊髄損傷のため車椅子生活30年)
【8月26日】 「何としても、ぼくは音楽教師になりたい」南沢創さん(武蔵野音大大学院生)
【9月30日】 「県知事選立候補者に聞く会」 自立生活をする車椅子生活者主催/ 「1000個の壷を千古の窯で!」上田市在住・陶芸家、塚田信治さん
【10月28日】「軽井沢の森の中でエイズと向き合って語り合いの場を〜軽井沢町のポジティブカフェ、ノーチェ」木村久美子さん(HIV感染者たちのカウンセリングをして10余年)
【11月25日】 「小海線に乗って〜シドニーパラリンピックにマラソン選手として参加 "無念の失格"」保科清さん訪問(視覚障害者、小海日赤病院で物理療法と機能回復訓練を担当)
【12月23日】 「ユニバーサルな街づくり〜自立生活セミナー、長野市にて開催〜」 小島直子さん(バリアフリーコンサルタント、24時間介護体制で地域で生活)、川内美彦さん(アクセスコンサルタント)にインタビュー

2001年(平成13年)
【1月27日】 「念願かなって一般企業に転職」塚越加枝さん
【2月24日】 「結婚10周年」 共働作業所わっこ所長・桜井真一、もり代さんご夫妻
【3月31日】 「点字の卒業証書」東小学校6年1組の子どもたちと大長芳枝さん(盲導犬ビクセンと共に3年間交流)

ページの先頭へ

心の輪

 『里枝子の窓』がひろげたひろやかな心の輪。月に一度、リスナーに向けて大きく開かれる、『里枝子の窓』。 そこから発信されるさまざまなメッセージが、感動と共感の大きな うねりとなって予想もしていなかった多くの人たちとの出会いや、 障害を持つ人たちの力を結晶させた、心に残る素敵な作品まで生まれました。

さわやかで心に沁みるテーマ曲は声を失った音楽家の作品です

 番組テーマ曲は、広沢里枝子さんと出会い、彼女の感性と生き方に共鳴した土屋竜一さんの作品です。土屋さんは佐久市在住の音楽家。十歳で進行性筋ジストロフィーと診断されました。重い病気と闘いながらシンガー・ソングライターとして活躍を続けてきましたが、気管切開を受け、たいせつな声まで失いました。しかし、土屋さんは今も意欲的に創作活動を続けています。里枝子さんの一頭目の盲導犬キュリーを歌った「街に出よう、キュリー」は、里枝子さんの作詞で全国わたぼうし大賞に輝いています。

●土屋竜一(音楽家)
表情豊かな美しい語り声。里枝子さんの人柄までが温かく伝わってきます。そんな『里枝子の窓』のテーマ曲を作曲できたことは僕の誇りです。気管切開で失われた僕の声が、最後にこの番組で収録されたことも忘れられません。かつてDJとして活躍した僕にとって、今でもラジオは心を表現できる大きな世界。その窓口になってくれているのが、この『里枝子の窓』なのです。

番組がきっかけになって、農家で開かれた小さなコンサート

 番組への出演が縁で、聴取者の一人だった専業農家の主婦から声がかかり、農家のお座敷で小さなバイオリン・コンサートを開いたのは南澤創さん。彼は高校卒業の年に先天性の病気が原因で急速に視力が低下。視覚障害を持ちながら武蔵野音大大学院を卒業し、現在は「音楽教師になりたい!」という夢に向かって努力を続けています。

●南澤創
東京の盲学校の音楽科に入学し、盲人として生きていく勉強をはじめた1993年の夏休みに、「『里枝子の窓』に出てみない?」と声をかけていただきました。放送の番組を聴いたある主婦の方から「ラジオで聞いたあなたのバイオリンを生で聞いてみたい!」とのお電話をいただき、専業農家の座敷で十五、六人が集まって僕のバイオリンを聴いてくれました。人と出会い、音楽を伝える楽しさを初めて知った一日でした。それから、バイオリンを持ってミニコンサートを続けながら、「音楽教師になりたい!」と夢を持ち続けています。

障害者が手を取り合って実現した夢の絵本

 筋ジストロフィーという病を持つ上田市の荒井久子さんは、『里枝子の窓』で紹介した『マイ・バデイ』という海外の介助犬の本に深い感銘を受けました。そして、その本がまだ日本語に訳されていないことを知って、電話と手紙で出版社を捜し、多くの仲間たちの協力により、とうとう『BUDDY - ぼくのパートナードッグ -』日本語版発刊を実現させたのです。

●荒井久子
 「マイ・バディ」という本は、まだ日本語訳が出版されていないようですが、どこかで版権を得て出版する予定はあるのでしょうか?パートナー・ドッグを育てるのも大事ですが、その前に世論を育てることが大事かと思います。私も初めて、番組で寝返り介助をできることを知り、もっと多くのことを知りたくなりました。そして、童話のような形で「マイ・バディ」を出版し、図書館、学校に置いたらよいと思いました。もし協力し合って、出版できたらすばらしいと思いませんか?(当時番組に寄せられたハガキより)その時はぼんやりと聴いていた『里枝子の窓』がきっかけで、本の出版にまでこぎつけられて…。さらに介助犬の世界へと広がっています。いまは、介助犬アルファーも家族の一員となっています。

ページの先頭へ

反響

 リスナーから届けられた感動。 放送終了後に届く、共感の電話や手紙。 里枝子さんの声に、言葉に励まされ、勇気づけられた人たちは障害者だけにとどまらず、長野県内のたくさんの健常者たちも、熱い感動を寄せてくれます。

毎月楽しみに聞いておりました。 私は里枝子さんと同じ病気です。この番組を通して、多くの方との出会いがありました。お互いの支え合いの中で、困難を越え、精一杯生きていることを知り、とても励まされています。 本当にありがとうございます。私たちはすべての中で生かされています。すべてと共に生きています。(略) (坂城町Y・K) (略)

広沢さんについては、点訳活動を通じて存じ上げておりましたので、経歴や環境については知っておりましたが、また改めて、生きる姿勢、生きざまに感動いたしました。(略) 今回の放送から、今更の様に日本の社会の福祉のたちおくれを痛感させられました。キリスト教の土壌の上に育まれた欧米の社会に比し、島国日本の民族性に由来することが大きいのでしょうか。(略) (上田市T・S)

『里枝子の窓』、大きくうなずきながら聞くと共に、やはり声を出していかなければいけないのだ、と背中を押された気がしました。 (略)私のように軽症でさえ、就業できない。社会人として認められません。仕方なく自営。普通の生活が"美談"にならない日を夢みてあきらめずに声を出していくことを再確認させてくれて、ありがとう。 (上田市H・A)

お元気ですか。「今日も元気かい!」、こんな感じで(この手紙を)書いています。昔、録音したテープで里枝子さんの声を聞いています。これからも頑張ってください。僕も頑張ります。 (池田町 車イスのチャレンジャー)

ページの先頭へ

未来 『里枝子の窓』さらに明日へ

 上田点字図書館でデイジー録音図書導入に伴って、『里枝子の窓』を提供、デジタル化し登録されました。 ボランティアグループ「デイジー上田」が、『里枝子の窓セレクト』を製作しました。 全国で利用できることから、全国各地から点字の感想文が届きます。 上田点字図書館のデイジー図書2676タイトル中でも、最も貸出し頻度の多いのが『里枝子の窓セレクト』です。 さらに、続編も製作します。 『里枝子の窓』の輪は全国に広がっています。 障害を持つ一人の主婦をパーソナリティに起用し、障害者たちの「あたりまえの生活」を伝えて来た番組が、いつの間にか15年の歳月を刻んでいました。

 休廃止の論議もありましたが、里枝子さんの熱意とリスナーの支援に支えられての15年でした。 番組は、障害者と健常者との心のバリアを取り除き、両者が一つに溶け合った新たな世界を創りあげようとしています。 ささやかな番組ではありますが、『里枝子の窓』が開く明日を信じています。

 ページの先頭へ